おぎの稔氏の公開質問状の感想文

(これ)


変なタイミングで申し訳ないが、おぎの議員の署名について書く。感想文のようなクオリティであるが、もしかしたらお役に立てるのではないかと思っている。

書き出しから。


私たちは、萌え表現やバーチャルYouTuber(以下、VTuberと呼ぶ)による表現行為に対する偏見差別を改めるとともに、日本社会における表現の自由、多様性及び寛容さを求めて声を上げ、TwitterなどのSNSを通じてつながる有志一同です。

「偏見」「差別」「表現の自由」「多様性」「寛容さ」といったリベラル用語が列挙される。穿った見方かもしれないが、この界隈はブーメランというか合気道というか、そういうカタルシスを求める文化があるのだろうか。合気道という表現が適切かはわからないが、要は相手の「力み」をそのまま返して、「ほら、自分の使った武器であっさり倒されちゃったネ☆」というようなスマートさ……。相手の「因果応報」や「身の程知らず」が演出される状況。それを美としがちな気がする。多様性及び寛容さとか、イデオロギー的にふだん言わんでしょう。あまりそういうのばかりに頼りすぎるのもどうか。

まず、この手の「普遍的価値」は、なんだか偉い人が価値を保証してくれないと簡単にインテリに奪われてしまう気がする。フェミとアンチフェミで争うなりするとき、「まぁまぁおやめなさい」と言って現れる「上の者」が、「確かに多様性や寛容さは大事だねぇ」と言ってくれる状況においてのみ、有効な気がする。このあたりがなんだか弱いのではないか。表現の自由などまさにそうではないか。もはやツイフェミ含むTwitter上のリベラルは「表現の自由(笑)」みたいな感じであるし(あくまでTwitter上の話である)、かなり頻繁に「表現の自由は無制約ではない」というエクスキューズが強調される。つまり、以前は無条件正義とされた教条を唱えても、「そのイニシアチブをこちらが持っていないという脆弱性」のほうが目立つ気がするのである。多様性だって、好ましくない多様性を排除する事を厭わない。良い多様性だけが多様性という含みが「多様性」という思想にはそもそもある。呼び出せると思っている権力が呼び出せないかもしれないのだから、あまり挑発ばかりしている場合ではないなと思う。もちろんこの面が全てではなく、純粋な意味で用いられている側面もあるだろうとは思う。表現の自由なんかは、もはや表現の自由戦士が使いすぎて普遍的訴求力を弱めたが、良く見れば換骨奪胎して「こちらがイニシアチブを持つ自前の武器」になりつつあるかもしれない。多様性や寛容性はどうだろうか。先行きが微妙だと思う。


ジェンダー論・フェミニズム方面で弱い


現実の年齢や性別、容姿や障害・疾病の有無にかかわらず、自分がなりたい外見になれるこのVTuberの世界は、現実世界の私たちの肉体を束縛するセックスやジェンダーを越境して、自由に羽ばたくことができる空間なのです。

この箇所はあらゆる面で弱い。訴求相手を議連のフェミニストと仮定すると、ああいったタイプのフェミニストから見てVtuberに「セックス」は無い。表象なのだから、どう変えようが本人の肉体的性別は越境しない。いや実質的に変わるんだ、と言っても用語法としてフェミに通じないだろう。むしろ「セックスもジェンダーもわかってないんですね(笑)」と判断されると思う。また、「越境」を美化する時代は過ぎ去っていると思う。匿名フェミがトランス排除を始めて久しく、むしろ「越境」は敵視される風潮が強まっている。フェミと異なるLGBTの方面でも越境の美化は主流でない気がする。LGBTでもフェミでも、越境が美しい言葉である時代は過ぎ去り、今は「尊重」の時代であると思う。「ジェンダーの世界ではこれが正しいんでしょ?」という主体性なきカウンター狙いだとしたら、その流行り廃りの節操の無さに疎いのではないか。リベラル男性も、フェミニズムの教条よりは「とりあえず声を上げている女の味方」という動きを好むから、教条とフェミがぶつかったとき、教条に力はないんじゃないかと思う。そして保守派に訴求する場合も、「セックスやジェンダーを越境できる」はぜんぜん力を持たないので、誰に訴求する文言なのかよくわからない。

本来、フェミニズムが擁護すべき、女性の多様な在り方と自由を称揚する立場とまったく矛盾するものです。

「正当なる本来のフェミニズム」にぶら下がろうとすると一人一派と言われて終わりなので、「フェミニズム返し」にこだわるのは、やはり良くないと思う。そもそもフェミって「フェミニズムでは~」って意外と言わない。社会学とか心理学とか引用すると思う。お母さん食堂署名もアンコンシャスバイアスだったし。正当なるフェミニズムなるものにぶら下がろうという奇特な戦術を取るのはアンチフェミぐらいなものである。

じゃあどうすべきかというと、「正しい在り方を定め、それ以外を排除するのは、女性を縛るジェンダー規範の強化に他ならない」的な方向の理論立てで、「そうやって排除されてきたものを見直す多様性の時代が来ている。もっと柔軟に考える必要がある」という感じで繋いだ方がいいんじゃないかなぁ……。わからないけど。


セクシュアリティが雑


 現実の肉体の年齢や性別を超えて、まったく異なる理想の身体になるという、新しいセクシュアリティを獲得した人々

意味不明。フーコーが言ったような広い意味でのセクシュアリティ(性行動の仕方)なら意味は通るが、それは獲得とは言わないのではないか。一般に言う「LGBTQIA…の博物誌に登記されているセクシュアルマイノリティ」という意味だとすると、バ受肉はそこに入れてもらえないので成立しない。

そもそも、多様性とかセクシュアリティは「好ましくない多様性」を公然と排除してきた。いくらセクシュアリティの多様性や信仰の自由が推されても、イスラムの一夫多妻は認められないのである(ピンク・ウォッシング)。そういう多様性の政治を見てきたので、「セクシュアリティと言えば何でもありなんだろ」みたいな安易な用い方は純粋すぎて不安になる。オタクならロリコンや二次オタがセクシュアリティに入れてもらえないことぐらいわかるでしょう。それは彼らの倫理に抵触するから。LGBTなんて、キリスト教(系)倫理のマジョリティ様に対して「私たちは表面が違うだけで本質は同じなんです~」と言って認めてもらっているようなもの。つまり、キリスト教(系)倫理のマジョリティ様が「本質を共有する」と認めたくないものは認めてもらえないんです。だからもしセクシュアリティで理論武装したいなら、本質的に同じところがあるんです~という土下座風論破をする必要がある。その気があるとは到底思えないテキトーな「セクシュアリティ」の用い方は、本当、先行きが不安である。


板倉氏発言はつよい


そこで言うと、板倉節子氏はおぎの氏より遥かに巧みである。

価値観の違いを押し付けるのではなく、どうしたらお互いが良い方向に行くのかを考え、歩み寄る姿勢を取ることが何より女性が活動しやすく、大切な事ではないでしょうか。

これは要するに、「それあなたの価値観ですよね?」という鋭い批判である。続く箇所も強い。

表現をする上での女性の権利は一体何なのか。
今一度考えていただきたいと思います。

これは要するに、「議連はVtuberを『表現される客体』としてのみ扱っているが、その背後に『表現する主体たる女性』がいることを、もしかして軽んじてるんじゃありませんか?」と切り込んでいるのである。

波風の立たない文章で舌鋒鋭く反論する板倉氏に対して、おぎの署名はあまりに文章が散漫として浅薄、鋭さもない。

おわりに

なんかもっと頑張ってほしいと思った。

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