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宏美 門眞妙 二人展「swimming」 レポート

松﨑なつひ(宮城県美術館学芸員)

 世界中で猛威を振るうCOVID-19による最初の感染拡大にようやくいったんの陰りが見え始めた2020年6月に、本展は開催された。人の集まる場所を避けざるをえない状況が続く中、筆者にとっても(職場である美術館を除き)久しぶりに実際に足を運ぶ展覧会場であった。会場であるGallery TURNAROUNDは、2010年の開廊以来、仙台や東北を拠点に活動するアーティストを中心に企画展を行い、彼らの活動を支えてきた。本展に出品する二人の作家も、東京での作品発表を継続しつつ、それぞれの住む地域での作品発表も積極的に行っている。本展は、仙台在住の門眞妙が岡山在住の宏美に声をかけて実現した。門眞によれば、宏美が門眞の作品を購入したことをきっかけに「キャラクター」を描く画家同士として認識し合い、互いの作品へのリスペクトや共感があったというが、二人での展示は今回が初めてだった。

 会場では、宏美の作品19点、門眞の作品25点が、混在するように配置されていた。ともに、タブローからメモ用紙サイズの小さなドローイングまで、作品のサイズやボリュームもさまざまだ。Gallery TURNAROUNDにはカフェも併設されており、本展ではギャラリースペースのほか、カフェスペースにも作品が展示されていた。壁面上で高さをそろえて整然と並べる平面作品のオーソドックスな展示スタイルではなく、床に近い位置から天井近くまで、空間全体がリズミカルに構成されていた。

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会場風景 photo by Koiwa Tsutomu



 宏美の作品は、全体に彩度が高く、くっきりとした筆のタッチやドローイングの線も相まって、力強い生命力を放つ。その印象をさらに強めるのは、画面上のあらゆるモチーフを侵食するように繁茂する植物の存在かもしれない。宏美は、キャラクターを眼や髪、あるいは顔などのパーツのみで描き、風景や植物の中に浮遊するように、あるいは周囲に紛れ込むように表現する。本展のために描き下ろされた新作《仙台―岡山》(2020)は、キャラクターの横顔(頭部のみ)が画面の中心に大きく描かれる。中性的で無表情なキャラクターの横顔は、ぽっかりと画面中央に浮遊している。キャラクターの青い髪と植物が風に舞うように絡み合う背後には、モザイク状になった仙台の町並みが見える。解像度の低いデジタル画像のようなその背景は、岡山在住の宏美にとって未知の土地である仙台との心理的距離や期待感を反映しているかのようだ。

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宏美《仙台―岡山》2020
photo by Tae Monma



 絵柄だけを見れば、デジタルによる作画とも親和性があるように見える宏美だが、実は人一倍、モノとしての作品を残すことに対して自覚的な画家である。そのことは会期中に門眞や筆者と交わした会話の中で宏美が見せた、絵具の退色防止や作品の保存方法への関心の強さからもうかがえたが、何よりも特徴的な手製のキャンバスに、端的に示されているだろう。例えば《愛は花,君はその種》(2019)のキャンバスは、側面が幅10センチ程もある台形状に仕上げられている。右側面には、画家がリスペクトするアニメのキャラクターが、扉の隙間からのぞいているかのような大胆なトリミングで描かれる。表の画面には、生い茂る植物と、複数のキャラクターの顔のパーツが混じり合うように描かれ、側面とは異なる絵画空間が展開する。左側面や上下面も同様に、異なるキャラクターが描かれている。表面から連続的にキャンバスの側面まで画面を回り込ませるように描く画家は多いが、本作の場合、側面は別の一画面として自立している。つまり、側面の厚みは作品によって異なるものの、宏美の作品は、一つのキャンバスでありながら、一枚の絵というよりも、5つの面を持つ立体作品、と捉えることができる。

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会場風景(入口付近より。右端に《愛は花,君はその種》)
photo by Koiwa Tsutomu


 また、本作も含め、出品されていた宏美の作品の多くを見て気がつくのは、透視図法的な意味での奥行きから自由になることにより、キャラクターの持つ平面性(フラットさ)と植物や風景描写における写実性(立体感)とが、反発し合うことなく自然に画面の中に共存していることだ。自らが描く世界の中で、宏美はおそらくキャラクターも植物も身近な生命をもつ存在として等しく捉えている。本来ヴァーチャルな存在であるキャラクターと、現実に息づく植物との間にあるはずの差異は、彼女の作品中では曖昧になり、混沌としながら、独自の視野を成立させている。その不思議な画中の空間と、キャンバスの立体性による効果とが相まって、鑑賞者は少しずつ位置を変えるたびに、異次元に迷い込むような錯覚に陥ると同時に、作品の存在感にも圧倒されることになる。そして、鑑賞者の意識は、画家のまなざしが捉える仮想現実的な世界の中へと巻き込まれていく。

 一方、門眞の作品は、ゆっくり、少しずつ色を重ね、丹念に画布に絵具を浸透させるようにして生み出された、透明感のある、はかないほど柔らかな色調を特徴とする。その微妙な筆致は、おそらく作品を実見した者でなければ分かるまい。門眞のタブロー作品の多くは、少女のキャラクターが画面の中央にたたずみ、その背後に緻密を極めた風景が描写される。《おわかれのれんしゅう》(2020)では、作品の前に立つと、セーラー服にマフラーを巻き、こちらを向いた少女の目と鑑賞者の目がちょうど合う。何か言いたげな表情は、おそらく鑑賞者の捉え方次第で、さみしげにも、幸せそうにも見えるだろう。彼女は公営の集合住宅のベランダなどでよく見かけるような手すりを背に、もたれるでもなく立っている。手すりの向こうはどこにでもありそうな住宅街。屋根や木々には雪が積もっている。少女(と私たち鑑賞者)のいる場所は、背景の町並みよりも少し高い位置のようだ。よく見ると、少女の周囲にだけ、雪が降っている。ここはどこだろう。知っている場所のような気がする。彼女とこの場所の関係は?……このように門眞の作品を前にして、描かれた状況を分析しているうちに、ひとりでに頭の中で自分の記憶や感情がざわざわと引き出されてくる体験は、筆者のみならず多くの鑑賞者に共通するのではないだろうか。

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図 1 門眞妙《おわかれのれんしゅう》2020
photo by Tae Monma


 《幽霊のわたし》(2020)では、髪をツインテールにした少女の後頭部が、画面一杯に描かれる。《おわかれのれんしゅう》とは違い、この少女は向こうを向いていて、その顔を見ることはできない。けれど、カールした長い髪はまるで生き物のように踊り、少し左に傾いた頭部は、それだけで十分に表情豊かだ。鑑賞者の関心はまず少女へ、やがて、自然とこの少女の眼前にある風景へと向かう。彼女の肩越しにわずかに見えているのは、なんとなく荒涼とした地面と水平線、そして鳥の舞う空である。この場所を、東日本大震災の被災地の姿に重ねる人もあるだろうし、そうでない人もあるだろう。この作品に限らず、門眞が描く風景には、古いアパート、公園、住宅など特徴的な建造物や地形が、その場所を知っている人にはたちどころに分かるほど、正確に描き込まれている。いずれも実際の風景に取材しているが、門眞はことさらそれをアピールはせず、少女の姿とともに静かに描写する。解釈はあくまで鑑賞者(の記憶)に委ねられるが、極端に詳細な風景描写は、自分が知っていようがいまいが、その場所はこの世界のどこかに確かに存在している(いた)、という実感を、否応なく喚起する。鑑賞者とその場所とのあわい、「今このとき」と「いつか・どこか」のあわいに、少女たちは立っている。彼女たちがいわば霊媒のような存在となって、見知らぬ、しかしどこかに必ずある風景と、記憶の中の風景とが思わぬ形で重ねられることで、郷愁にも憧憬にも似た感情が鑑賞者の中に呼び覚まされるのだ。門眞の作品を前にして得られる感覚は、優れた宗教画やロマン主義の風景画の前に立ったときの感覚と似る。

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図 2 《幽霊のわたし》2020
photo by Tae Monma


 ところで、本稿では、二人の作品をことさらキャラクターという一つの要素だけで捉えたり、その共通点を要として両者を比較したりはしていない。キャラクターが登場する絵画作品をサブカル的な文脈の中でひとくくりにして取り扱う傾向は、いまだ根強い。断っておかねばならないが、筆者には、キャラクターを描いた絵画の変遷を特に注意して追いかけてきた経歴はない。従って、そもそもこの傾向についての可否や妥当性を今ここで論ずることは本稿の主旨ではない。ただ、キャラクターを描いた絵画を受容する人の多くが、モニターや印刷物と絵画との差異をあまり重視せず、むしろ好みのキャラクターが描かれているか否かが、鑑賞の基準となっている面は、少なからずあるように思う。その場合、アニメやゲーム、ネット上の世界の同一線上に絵画も位置すると捉えられているのかもしれない。あるいは、キャラクターを描く画家たち同士の影響関係のみを追おうとすれば、日本の漫画やオタク文化に根ざした絵画の系譜として、ひとまとめに論じられる こともあるだろう。このようにキャラクターという要素のみに着目してしまえば、個々の作家、作品がもつそれ以外のたくさんの要素が、意図せず語りの中から遠ざけられてしまう可能性には、注意を払わなければならないだろう。

 門眞、宏美も、たしかにアニメに見られるような人物表現=キャラクターを自らの作品に登場させる。その意味で、キャラクターの文脈から語ることももちろん可能である。むしろ、そのような文脈での語りの方が、一般的であるかも知れない。しかし、繰り返しになるが、キャラクターは二人の作品を構成する重要な共通点ではあるものの、あくまで一要素にすぎない、と筆者は考える。ここまでに記述してきたように、二人の表現の中には、キャラクターという要素以外の絵画的な特徴が豊富に含まれている。そしてむしろ、モニター上の画像では表し得ない筆致や線、色、ボリュームなどの要素が複合的に組み合わされた絵画ならではの特質にこそ、二人の個性が表れていると考えている。その意味で、キャラクターを描かない他のあまたの絵画と本質的な部分で何かが大きく異なっているわけではない。

 二人の作品を前にしたとき、筆者はそれぞれ全く異なる仕方で両者の作品にアプローチしていた。宏美の作品では、画家が見ている仮想と現実の入り交じった景色に鑑賞者が引き込まれていくような感覚を得るのに対し、門眞の作品では、少女というあわいの存在に導かれ、未知であると同時にそれぞれの記憶の中の風景でもあるような場所への、憧憬にも似た感傷が引き起こされる。そのため、二人の作品がランダムに並べられていた本展では、鑑賞者は会場内を何度も行ったり来たりしながら、他者との視点の共有を通じて見える新しい風景や、自己の内面に刻まれた既知の風景との間をも、なんども往来することになったのではないだろうか。こうした展示を見たあとは、往々にして会場を出たあとに目に入る周囲の風景までも、いつもと違って見えるものだ。いくつもの時空を自由に泳ぎ回っているかのような充実した視覚体験を、本展は生み出していた。

 余談となってしまい恐縮だが、筆者は仕事柄、仙台市や宮城県の中学生、高校生の作品展をしばしば目にする機会がある。宏美や門眞のように、キャラクターを自らの造形言語として選び取りつつ、それだけに拘泥せず伸びやかに絵画として表現している作品は、年々その数を増しているように思う。とはいえ、いまだに美術部など教育の現場において、キャラクター表現に否定的な指導も根強くあるとも聞く。本展は、ギャラリーや美術館の数が極端に少なく、多様な芸術表現に触れる機会があまりない仙台という地方都市において、自分らしい表現を探す若い世代の人たちにとって、とくに貴重な機会になり得たのではないか。宏美、門眞ともに、今後も何らかのかたちで、継続的にこの仙台の地で作品を発表し続けてくれることを心から祈りたい。

トップ画像 photo by Koiwa Tsutomu
*note仕様のためトリミング

宏美 門眞妙 二人展「swimming」
会期:2020年6月2日(火)~6月14日(日)
会場:Gallery TURNAROUND(仙台)
http://turn-around.jp/sb/log/eid753.html

レビューとレポート第19号(2020年12月)