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指定文化財とは誰のために存在するのか? ―天童市美術館「市指定文化財収蔵品展」― 志田康宏


1 「市指定文化財収蔵品展」とは


 変わったタイトルの常設展を発見した。
 地方の中心的な美術館や博物館が自治体の指定に基づく指定文化財を収蔵していることは珍しいことではなく、むしろ正しく喜ばしいことであるが、その指定文化財を中心に据え「市指定文化財収蔵品展」として開催される展覧会はなかなか耳にしないので、取材したいと思い立った。
 山形県天童市は、山形県の中心部に位置し、天童温泉や日本一の生産地である将棋駒が有名な地域である。またフルーツ王国山形を支える果実の産地でもあり、日本一の生産量を誇るラ・フランスをはじめ、さくらんぼやぶどうの特産地としても全国的に知られる。
 天童市美術館は、平成2(1990)年、山形県内ではじめての公立美術館として開館した。地元ゆかりの作家の作品に加え、地元ゆかりの企業である吉野石膏株式会社が所蔵する著名な美術コレクションの中から近代日本絵画を中心として256点の寄託を受けており、充実したコレクションを誇る美術館である。
 展示室に入ると、吉野石膏コレクションから梅原龍三郎、横山大観、前田青邨ら著名作家による数々の名品が展示されている中に、3件の館蔵市指定文化財が展示されていた。今回は「市指定文化財収蔵品展」という常設展示の形について考えたいので、展示されていた指定文化財のみ取り上げてレビューを行う。

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天童市美術館外観(筆者撮影)


2 展示作品

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天童市美術館展示風景(筆者撮影)


① 最上義俊(家信)《紙本著色神馬図》
 初めに目に飛び込んでくるのは、見るからに古そうで大きな人馬の絵である。これは山形最上家の最後の城主である最上義俊(家信)が自ら描き、市内の舞鶴山山頂にある愛宕神社に奉納したものと伝わる神馬図である。神社から美術館に寄託されている。
 元和3(1617)年、父・最上家親の死去に伴い12歳で家督を継いだ家信が江戸から山形に帰国し、そう時間が経っていない頃に奉納したものと推測されている。奉納先の愛宕神社に祀られた愛宕権現は武神らしく馬に乗る姿をしているので、そこに巨大な絵馬を奉納して、入国早々に家臣らに君主としての意気込みを見せようとしたのだろうと考えられている。現在は掛軸に改装されている。
 制作年や奉納年については諸説あるようだが、元和年間(1615~1624年)という早い時代の風俗を大名自ら描き残したものである可能性が指摘されており、全国的に見ても貴重な作例であると言える。
(宮島新一「最上家信奉納の神馬図」『歴史館だより17』最上義光歴史館(2010)参照)


② 歌川広重《東都上野霧中の花》《同所不忍雨中の花》
 ひとつ飛ばした先に展示されているのは、江戸時代の浮世絵師・歌川広重が天童藩のために描いた肉筆浮世絵、いわゆる「天童広重」の対幅である。江戸時代後期、天童藩は逼迫した財政を立て直す方法として、当時江戸で人気浮世絵師として活躍していた歌川広重に作品制作を依頼し、御用金を藩に提供した町方・村方の名主や有力者たちに対してその作品を褒美として与えるという方策を考え出した。これにより広重が天童藩のために制作した作品群が「天童広重」と総称されている。当時200~300組ほどの作品が制作されたと考えられているが、現在では全国に100組程度の現存が確認されているのみである。世界的に有名な広重作品の中でも、制作年代や背景が明確であるなどの特長があり、人気のあるシリーズとなっている。
 「天童広重」の画題は名所絵が多く、「立斎」と款した記名の横に金泥で画題となった名所の名前が記されているものが多い。全国の名所になじみの薄い地方に贈る作品であるため、わかりやすく画題を書き加えたのではないかとも言われている。


③ 歌川広重《田野文仲利和像》

 天童藩がなぜ大人気の広重に作品制作の依頼が可能であったかについては、従来、江戸詰め藩士の中に吉田専左衛門などの狂歌を嗜んだ者があり、狂歌絵本の挿絵もしばしば担当し自身狂歌にも親しんだ広重との交友の中で藩の困窮が伝えられ、制作が依頼された蓋然性が指摘されていた。しかし昭和63(1988)年、山形市内で《田野文仲利和像》《松平主税康邦像》の広重作の2点の肖像画が発見されたことにより、別ルートの可能性も浮上することになった。中央に展示された本作はそのうちの1点である。
 田野文仲は天童藩の藩医であり、松平康邦は幕府寄合衆の旗本であった。天保6(1835)年、文仲は、松平康邦の十一男・敬次郎を養子にもらっている。文仲は康邦の肖像画制作を広重に依頼し、これは天保10(1839)年に制作された。さらに文仲が江戸を離れ天童に帰郷した嘉永2(1849)年に文仲自身の肖像画も制作されている。「天童広重」が制作された期間と推定されている年代(嘉永2~4年)より2点の肖像画の方が早い時期の制作であることから、広重は、狂歌を通じた交流の前に文仲との交流を持ち、天童藩のために協力したのではないかと考えられるようになった。田野家の子孫には「広重と交遊のあった文仲に、家老であった吉田専左衛門が藩の財政難を訴え、広重の肉筆画を依頼してもらい、その際に使い走りもした」と伝わっている。
(池田良平「天童広重とその背景」『天童市美術館研究紀要第1号』(1998)参照)

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歌川広重《田野文仲利和像》天童市美術館蔵 (天童市美術館提供)


 市美術館に展示されていた3件の市指定文化財は、史実を伝えるだけでなく、天童の歴史を体現する歴史資料そのものであり、地域にとってとても貴重で、市の文化財指定を受けるに納得の3点であった。
 しかし実は館蔵の指定文化財はこの3件がすべてではない。館学芸員も兼任する池田良平館長によれば、もともとは本展に6件の館蔵市指定文化財すべてを展示する予定であったが、展覧会準備の中で同市が運営する「天童織田の里歴史館」という別の館でも展示することになり、市美術館で3件、歴史館で3件を展示することになったそうだ。別の展示会場ではあるが、館が所蔵する市指定文化財すべてを閲覧できる折角の貴重な機会だったので、両館に取材に赴いた。

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織田の里歴史館外観(天童市美術館提供)


 天童織田の里歴史館は、正式名称を「山形県指定有形文化財 天童市立旧東村山郡役所資料館 天童織田の里歴史館」と言い、明治12年に建設された擬洋風建築の旧東村山郡役所を資料館として公開している施設である。建物自体が山形県指定の有形文化財となっている(画像参照)。
 実は天童の地は織田信長の子孫が治め、天童織田藩と呼ばれた時期もある地域である。織田信長が天正10(1582)年の本能寺の変で早世した後、織田家は小幡藩(群馬県甘楽町)や高畠藩(山形県高畠町)を治め、天保2年(1831年)年に藩主の信美(のぶかず)が天童に入り天童織田藩が成立、幕末までの約40年間、天童の地を織田家が治めた。
 記念館は今年度「天童の古(いにしえ)」と称し天童の歴史を特集する企画展を開催中で、取材日はちょうどシリーズ第三弾「織田藩と天童」展が開催中であった。織田家と天童の関わりが中心的に展示されているなか、市美術館所蔵の市指定文化財のうち残りの3件は急な階段を上がった2階展示室に展示されていた。

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天童織田の里歴史館での展示風景(筆者撮影)


④ 歌川広重《東都品川八ツ山・京四條之涼・浪花天保山》
 天童広重の三幅対である。品川宿のはずれにある八ツ山と呼ばれる丘から見下ろした東京湾の雪景、京都・加茂川の中州に設けられた川床の上で月夜に涼む女性が描かれた夏景、華やぐ新緑の大阪の天保山を描いた春景から成り、雪月花と三都(江戸・京・大阪)を組み合わせた詩情豊かな名所絵である。

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歌川広重《東都品川八ツ山・京四條之涼・浪花天保山》(天童市美術館提供)


⑤ 歌川広重《松平主税康邦像》
 《田野文仲利和像》とともに発見され、天童藩と広重が交遊を持った時期の同定に示唆を与えたもうひとつの作品である。東海道五十三次などに代表される有名な木版浮世絵や天童広重の大部分を占める名所絵とは異なり、実在の人物を描いた肖像画である。背景もないシンプルな構成ながら、人物の柔和な表情からその人柄まで伝わってきそうな広重の技巧が活きた名品であると言えよう。


⑥ 吉田大八《絶命の辞》
 6点目は時代が変わり、幕末に天童藩のために戦った藩士である吉田大八の直筆にして絶筆の《絶命の辞》である。
 大八は1832(天保3)年、天童藩江戸藩邸に生まれ、要職を経て中老にまで昇格した藩士である。困窮に陥っていた藩財政の救済策のひとつとして、藩士が将棋駒を製作することを大八が奨励し、天童が将棋駒の産地になったと言われている。
 1868(慶応4)年、戊辰戦争において、旧幕府側の庄内藩・会津藩に対抗するため、織田宗家という家格を評価された天童藩主織田信学(のぶみち)は奥羽鎮撫使先導役を命ぜられ、中老であった大八が新政府軍を導く先導名代を任じられた。大八は薩摩藩・長州藩・仙台藩らの連合軍を率いて最上川を挟んで庄内藩と交戦するも、結果は庄内藩の圧勝に終わり天童陣屋及び天童市街は炎上してしまった。一時は身を隠していた大八であったが、奥羽越列藩同盟から大八の身柄引き渡しを要求され、藩主に咎が及ばぬよう大八は米沢藩に自ら捕らえられる。ついに大八は天童小路の観月庵で切腹して果てた。享年37歳であった。
 大八は天童を救った男として地元で語り継がれ、2020年には天童市出身の映画監督・佐藤広一による大八の伝記的ドキュメンタリー映画『大八伝 〜天童を救った男〜』が公開されている。


3 指定文化財制度と自治体

 そもそも指定文化財とは、文化財保護法第182条第2項に基づき、各自治体が条例を制定し域内に存する文化財のうち重要なものを保護や登録の対象とする仕組みである。本来は指定を受けた文化財の修復に掛かる金額の一部を自治体が補助するという決まりなのであるが、実際には困窮する財政の中で修復に掛かる費用を自治体が捻出することは難しくなっており、有名無実化している自治体が少なくないというのが実態である。
 今回天童市美術館で開催されていた「指定文化財収蔵品展」を取材しようと思い立ったのは、指定文化財だからというだけでひとくくりにして展覧会の主軸にしてしまうのは乱暴なテーマ設定なのではないかと思ったからだった。時代や背景も異なるそれぞれの作品の共通点を「指定文化財」という点だけに求めるのは難しいのではないかと感じたのだ。しかし、実際に全作品をじっくりと鑑賞することで、各作品が市の指定を受けるだけの十分な歴史的・資料的価値を持つことがわかり、指定文化財展というものが十分に成立し得るものだということを思い知らされた。また、その展示はきっと現地で開催し地域住民の鑑賞に供することに最大の意味があるだろうこともよくわかった。「市指定文化財収蔵品展」という一風変わったテーマの常設展は、それぞれの自治体が文化財を指定することの意味をよくかみしめることのできる展覧会であった。

 なお、市美術館2階には今野忠一記念室や地元出身の実業家・村山祐太郎によるコレクション、山並みを借景にした屋外彫刻展示場など、とても魅力的な常設展示もある。また、織田の里歴史館でも地域の歴史がしっかりと顕彰されており、市の施設が有機的に連動し運営されていて、面的に地域の顕彰ができている市域であると感じた。ひと言だけ付け加えるとするならば、この魅力を市内外にアピールする発信力がもう少しあると、もっと多くの人にこの地域の面白さを知ってもらえるのにな、という外野からのお節介な願いである。

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天童市美術館野外彫刻展示場(筆者撮影)

志田康宏(栃木県立美術館学芸員)

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天童市美術館 市指定文化財収蔵品展
2020年10月31日(土) 〜 2020年11月29日(日)
担当学芸員:池田良平(館長)
https://tendocity-museum.jp/


レビューとレポート第20号(2021年1月)