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近代日本の絵画と知識人 ―栃木県立美術館「collection1 特集 小杉放菴」から考える

木原天彦(渋谷区立松濤美術館学芸員)

2020年4月18日から6月28日まで、栃木県立美術館のコレクション展では明治から昭和にかけて活動した画家、小杉放菴(1881-1964)の特集が行われた。小規模ながら近代日本で形成された絵画ジャンルを同時代において越境し、明治期における知識人のあり方を体現したこの画家の足跡が一望できる展覧会であった。

会場となった栃木県立美術館は県立美術館の中でも古参で、優れた展覧会を企画することで知られている。そのテーマやジャンルも、ジェンダー、ドイツの現代美術、ダンスや身体表現の歴史など、学芸員の個性に応じて多岐にわたっている。他の美術館でも同様だが、優れた企画の基礎には、開館以来収集してきたコレクションの調査・研究が分厚い層となって堆積している。同館の8000点を超える作品群は郷土作家を含めた日本近代美術を中心に、ヨーロッパ・アメリカの近現代美術や、19世紀の西洋絵画、マイセン磁器まで多岐にわたる。それだけではなく、同館は県立美術館としては珍しい、文部科学省が認定する「研究機関」でもある。つまり、同館ではコレクションを基本とした調査研究が、博物館法に則る形で、より具体的に方向づけられているのである。この点が稀有であり、栃木県美の大きな魅力となっている。

今回のコレクション展でも、郷土・栃木を代表する日本近代の画家小杉放菴を取りあげている。担当は、「額装の日本画」展(2017年)などを企画してきた同館の志田康宏学芸員だ。本展はコレクション展の冒頭の一角であり、放菴の絵画がクロニクルに配列されている。解説パネルはほとんどなく、作品本体とキャプションのみのミニマムな構成であるため一瞬戸惑いを感じるものの、逆にこうした展示方式によって、作品そのものと出会い、それについてゆっくりと思考する慎重さを呼び込んでいたとも言えるだろう。また志田氏によると、本展で久しぶりに展示された作品も多いという。そのため小杉放菴の作品をよく知る人から初めて見る人まで、それぞれに見どころがある展覧会でもあった。

さて、展覧会場で実際に作品を見ていくと、油彩と日本画(絹本・紙本着色)の作品が入り混じっていることに気がつく。《海城南門》(1904-5年)や《べぼうの木》(1910年)など初期の風景画や、第二次大戦中に描かれた《金太郎遊行》(1944年)は油彩で描かれており、日本画が多い会場で、そこだけ浮き上がって見えてくる。放菴を知る上で第一に重要なポイントは、この技法の混淆であるらしい。そこで放菴の経歴を確認すると、栃木県日光で生まれた彼が最初に絵を学んだのは1896年、栃木県尋常中学校を一年で退学した年であった。この年に放菴は五百城文哉(いおき ぶんさい)という日光在住の洋画家の内弟子となっている。本展ではこの文哉の絵画も2点出品され、とくに目を引くのは《百花百草図》(1903年)だ。残雪の見える山の岩肌に、みっちりと隙間なく、色とりどりの高山植物が生えている。現実の光景ではありえないような色鮮やかで、かつパンフォーカスな緻密さをそなえる画面を見て想起されるのは、風景画というよりも博物画という語である。幕末から明治初期、油彩画は、その再現性の高さから、芸術であるよりもまず科学技術や軍事技術としての導入が目指されていたのであった。五百城の師、高橋由一は油彩の堅牢性や記録媒体としての優秀性を訴え、モノを迫真的に描くことでこれを証明しようとしたが、これも芸術という概念の外で油彩が受け入れられていたことを示している。こうした価値観はのちに、洋画「旧派」と呼ばれる明治美術会にも一部受け継がれていく。放菴自身は一時期、黒田清輝の白馬会研究所(彼ら「新派」の登場により、明治美術会は「旧派」と呼ばれるようになる)に通ったことがあるが、油彩の基本的な考え方は五百城をはじめとする「旧派」の薫陶を受けたと言えるだろう。

では最初洋画を学んだ放菴が日本画を手掛けるようになったのはいつなのか。出品作品のうちでは《仙童採薬》(1914年)がそのはじめであるが、放菴自身は1907年前後からすでに紙と墨を用いた作品を発表している。放菴の墨絵は、当時の画家の職業的な受け皿となっていた漫画やコマ画の仕事から出発している。1904年に放菴は「近時画報社」の特派員として日露戦争の戦地を写生し、戦況報告の記事も書いており、その後も『平民新聞』などで小川芋銭ら他の画家とともに活躍している。本展は会場の約半分がガラスケースになっており、そこに展示された作品も日本画の小品が多い。そのためか、放菴の作品からはどこか優しげな伸びやかさが感じられた。こうした漫画の仕事が、そのルーツのひとつなのかもしれない。

こうして日本画の道に進みはじめた放菴がさらに東洋的な傾向を強めるきっかけとしてよく語られるのが、1913年の渡欧である。本展では当時の作品として《アルハンブラの丘》(1913年)と《ブルターニュの村の八月》(1914年)を見ることができるが、ヨーロッパの日常風景に題材をとった両絵画は、前者が油彩なのに対して、後者は絹本に水彩という、折衷的な要素を含んでいることが移行期の作品として象徴的だ。渡欧中はイタリアやスペイン、イギリスやドイツなどの国々を旅行し、ルーベンスやシャヴァンヌ、セザンヌらの絵画を見て回った放菴であったが、意外にもパリで目にした池大雅の十便帖(与謝蕪村との合作、《十便十冝図》として知られる)の複製に衝撃を受ける。折しもこの年に、日本画の創造を牽引した岡倉天心が死去した。翌14年、日本画家の横山大観らが、当初は天心が中心となって結成した美術団体「日本美術院」を再興すると、放菴は大観や下村観山らとともに同人に名を連ねる。ここでは他の同人と異なり、もともと洋画出身の彼は洋画部を受け持ってはいるものの、油彩から日本画へと移行していく時期に、日本美術院での活動が人脈的に重要な意味をもったことは間違いない。

虎渓三笑図

小杉放菴《虎渓三笑図》1951年、栃木県立美術館

本格的に日本画制作に携わるようになった放菴を知るための第二のポイントは、その漫画の時代から変わらない、優しさと伸びやかさである。歳を重ねるごとに円熟味を増していくこの特徴は、とくに人物画に顕著だ。《虎渓三笑図》(1951年)は中国の古典に依拠した古い画題である。山で修行を重ね、悟りを開くまで外界には下りないと誓った高僧の惠遠が、友人との会話につい熱中しすぎて、見送りながらいつのまにか下界との境である「虎渓」を通り過ぎてしまっていた、という逸話をもとにしている。今回は12年ぶりの展示となる《三笑》(1934年)も同時に開陳しており、放菴が長い間この画題を好んで描いていたことがわかる。他にも小さな生命に目を向けた《蟹角力》(1940年)や1963年に描かれた童話のシリーズ(竹取翁、瘤取、金太郎、天狗舞、花咲爺)など、淡い色調と細く朴訥とした描線からなる後期作には、愛くるしい魅力がある。

ここで思い出すべきは、やはり放菴に大きな影響を与えた、池大雅の存在であろう。一般に池大雅といえば、与謝蕪村とともに江戸時代後期に活動した文人画の大家として名高い。文人画は士大夫画や南画とも呼ばれる中国由来の絵画様式だ。高い教養を身に着けた、絵画を専門としない人物を文人と呼び、彼らが自らの楽しみ(自娯)のために描く絵画が、文人画と呼ばれた。つまり文人画は絵の表面上の巧拙ではなく、作者本人の内面性にこそ価値を置いた絵画だといえる。識字率が上昇した江戸時代に庶民の間でも高い人気を誇った文人画は、明治の世になると、その中国由来、庶民的といった性格ゆえ、近代化の過程においてより国家的な日本美術を形成しようとする潮流のなかで一旦排除されてしまう。

1910年代に入るころ、文人画は「新南画」と呼ばれ再評価が進んでおり、萬鉄五郎や森田恒友、横山大観や今村紫紅などの画家が取り組むようになる。小杉放菴が文人画的な日本画を描きはじめるのも帰国後の1914年頃で、この動向にほぼ合致している。この時期、日本にポスト・インプレッショニズム(セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホら)の絵画が紹介され、その新しい主観的な表現に注目が集まり、そのなかで作者の精神(内面)を重視し表現する文人画が、東洋においてこれに匹敵するものとして再注目されたのである。

これに従うなら、一見してアマチュアの私的な余技に見えるこの時代の文人画は、じつは西洋の新潮流と日本を含む東洋の伝統を合体させ再解釈した、自己アイデンティティの構築でもあったと言うべきだろう。明治維新後の西欧留学によって日本の後進性を諸外国から突きつけられた士族=知識人たちが基礎教養としたのも、江戸以来の漢学であった。この自らの価値体系から生まれた文人画は、ある意味で国家を表象する歴史画以上に、彼ら知識人たちの生活感覚と結びついた、日本(≒江戸)的な絵画として理解できるだろう。つまり、ナショナリスティックな図式を回避しながら、同時に西洋に傾斜することもなく、巧妙に自らのルーツを延命する第三の道が、文人画だったのではないか。放菴自身も文を能くし、歌人としても知られる、まぎれもない知識人である。その放庵が、文人画の性質を上記のように理解していたとしても、不思議はない。

金太郎遊行

小杉放菴《金太郎遊行》1944年、栃木県立美術館

そして、こうした文人画の私的かつ日本的な世界観が、迫りくる世界大戦のなかで、厭世的な気分しか生まなかったのも無理はないと思われる。先に取りあげた第二次大戦中に描かれた油彩画《金太郎遊行》(1944年)はその点で、本会場でもっとも鑑賞者を戸惑わせる一枚だ。

この作品は1944年の戦艦献納帝国芸術院会員美術展に出品された作品である。放菴は横山大観の富士山の連作のように、大規模なプロパガンダ絵画を描くことはなかったし、本作にもそのようなわかりやすさはない。とはいえ、健康で強い男児である金太郎の姿に、隠された反戦の意識を読み取ることもまた、むずかしいだろう。むしろ現実が非日常化した戦争期であるがゆえに、放菴の絵画特有の伸びやかさや、背景に描かれた親近感のある里山の風景からは、それこそ厭世的としか言いようのない現実から遊離した感覚がにじみ出ている。放菴は現実と自分の中にあるビジョンとのあいだで引き裂かれながらも、一枚の絵画として本作を成立させている。この意味で、《金太郎遊行》はまごうことなき「ハイライト」である。

もう少し踏み込んで、放菴の画業を「文人画」≒知識人という角度から眺めるとき、文化人類学者の山口昌男が示した枠組みは示唆的である。山口は江戸期以来の知識人の系譜を『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995)と呼び、その中に小杉放菴を位置づけた。「敗者」とは、幕末の戊辰戦争で新政府軍に破れた旧幕府軍の人物たちを指す。彼らは明治以降の政治的な新秩序では中心から排除され、その代わり主に学問や芸術、スポーツの領域における、政治領域からは見えにくいネットワークを形成した。

小杉放菴の生まれた現在の日光市も、江戸時代までは東照宮がある幕府の直轄地である。放菴の父親、富三郎は日光の二荒山神社(現在は「日光の社寺」の一つとして世界遺産に登録されている)の神官で、平田派の国学者でもあった。古事記・万葉集などの古代文学に基づく国学の思想は明治新政府による神道の国教化に大きく貢献する。富三郎は1875年に同神社へ赴任しているが、彼は国教化の中心的な政策である「神仏分離」を日光においてより一層推し進める役割を担っていたという説もある。平田派の国学者は次第に、京都から東京への遷都など政治的課題や「王政復古」の方針をめぐって新政府と対立し、排斥の対象となっていく。「尊皇攘夷」のイデオローグとなり、江戸幕府と対立した富三郎たち平田派の国学者が、明治以降、一旦新秩序の中心に組み込まれながら、一転して新政府からも追い出されていく事実は、放菴の「敗者」としての境遇と無関係ではないだろう。

彼は、明治以降の社会で周縁的な立場しか選択しえず、どこかしら生きづらさを感じていたのではないか。翻って、なぜ放菴の絵画は底ぬけに優しく伸びやかなのか、と問うた時、「敗者」たちの生きづらさや、そこでの「笑い」や「楽しさ」が担った役割について考えてみることは、重要だろう。

本展はコレクション展なので、一般的な特別展よりも小規模である。しかし、これまでの栃木県立美術館の作品収集の努力によって、それだけでも作者のエッセンスに触れられる作品構成となっている。しかも、半永久的に保存され、未来に継承されてゆくコレクションの性質のおかげで、来館者は折に触れ鑑賞し、長い時間をかけて思考を更新しつづけていくことができる。コレクションの底力はおそらく、こうした粘り強い思考を可能にするところにあるのではないだろうか。

トップ画像:栃木県立美術館提供