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安藤裕美 個展 光のサイコロジー展に寄せて

横山由季子(芸術学/表象文化論)

安藤裕美の作家としての活動は、「パープルーム予備校」と切っても切り離せない。画家の梅津庸一が2013年から主催しているこの学校は、「美術予備校」「アーティスト・コミュニティ」「美術共同体」など様々に称されている。同じ場所に集って制作したり議論を交わすだけではなく、ときには寝食を含めた生活を共にし、日々SNSで予備校の様子や展覧会情報などを発信し、機関誌「パープルーム・ペーパー」を発行するなど、その活動内容は多岐にわたる。筆者が初めてパープルーム予備校の活動に触れたのは2015年のARATANIURANOでの展示「パープルーム大学物語」[1]であったが、そこでは壁にランダムに掛けられた大小さまざまな作品の間に、コピー用紙や、大判の布にレタリングされた数多の言葉が散りばめられており、その中に「アカデミー・ジュリアン」という文字があったことを覚えている。
アカデミー・ジュリアンとは、19世紀末のパリで結成されたナビ派の画家たちが通っていた美術学校である。歴史を振り返ると、梅津のように既存の美術大学における教育に疑問を持ち、より自由な制作と議論の場を求めてプライベートな学校、いわゆる「私塾」を開いた例は少なくない。

19世紀のフランスでは、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学するための予備校として、アカデミー会員や美術学校の教師たちがこぞって私設アトリエを開いていた。こうした私設アトリエの教師と画学生たちの最大の目標は、アカデミーが主催するローマ賞コンクールであり、そのために人体モデルの素描訓練にもっぱら重きが置かれていた。その中で異色の存在であったのが、印象派の画家たちの出会いの場となったアカデミー・シュイスやシャルル・グレールのアトリエである。
これらの画塾では比較的自由な教育が行われており、とりわけ後者は絵画の基本的なメチエを教えると同時に、画学生たちの独自な素質を伸ばすことを重視していた。いずれも授業料が安価であった点も共通している。印象派の画家たちに限らず、アカデミックなシステムの強いる重圧に反抗すると同時に、美術学校の形骸化した教育方針に失望した画学生たちは、やがてアカデミックな名声よりも、公的な成功を目指すようになっていく[2]。
19世紀後半に多くの画学生たちの学びと出会いの場となった画塾の存在が、「近代」絵画の誕生に一役買ったことは間違いない。1866年に画家ロドルフ・ジュリアンがパリに開いたアカデミー・ジュリアンも、もともとは国立美術学校を目指すための準備学校であったが、次第により革新的な教育へと舵を切っていった。それだけではなく、当時ボザールに入学する資格のなかった女性や、外国からの留学生、才能あるアマチュアも広く受け入れ、大きな成功を収めている。やがて1880年代末にこの学校に通っていたドニ、セリュジエ、ボナール、ヴュイヤール、ランソンらが中心となって「ナビ派」という芸術家グループが結成されることになる。

そして日本における洋画教育の基礎を築いた黒田清輝や久米桂一郎が19世紀末に学んだのも、アカデミー・シュイスの後継にあたるアカデミー・コラロッシのラファエル・コランのアトリエであった。この学校もアカデミー・ジュリアンと同じく女学生や外国人留学生を広く受け入れ、アカデミックな人体モデルを基礎としつつも、国立美術学校の保守的な教育とは距離を置いていた。やや時代が下るが、20世紀初頭のアカデミー・ジュリアンでは、梅原龍三郎や安井曽太郎らが学んでいる。

パープルームを主宰する梅津は、日本における「近代化」の行き着いた先にある美術大学や美術予備校の「奇妙さ」にしばしば言及してきたが、その発端にあるのは、アカデミー・コラロッシやアカデミー・ジュリアンで行われていた折衷主義的な教育であった。梅津は現代の美大や予備校の「奇妙さ」を肯定するでも全否定するでもなく、しかしそこからは独立した芸術家たちの共同体を作る道を選ぶことになる。その姿勢は、印象派やナビ派の画家たちが、画塾で学びながらもそこでの教育から先に進むため、仲間同士で画布を並べて共に制作に励んだり、絵画論を闘わせることを通じて、徐々に新しい絵画言語を生み出していった過程とも符合する。
一時制作を共にしていたモネとルノワール、ボナールとヴュイヤールはほとんど識別が困難なほど似通った作品を残している。パープルームにおいても、予備校での制作に加えて、予備校内や、様々なイベント、訪れた展覧会の会場、SNS上などあらゆる場所で絵画についての議論が繰り広げられており、梅津からの影響や予備校生同士の刺激を彼らの作品に見てとることができるだろう。安藤はそんなパープルームの第1期生として6年間を捧げており、今回の個展の作品制作にあたっても、梅津からの助言を受けたという。

安藤の個展「光のサイコロジー」に出品されたアニメーションや絵画には、パープルーム予備校や相模原の街並み、近所のファミレスなど、慣れ親しんだ場所が描かれている。安藤がその美学に深く傾倒するナビ派の画家たち――とりわけボナールとヴュイヤールが制作の舞台としたのも彼らが暮らしたアトリエや住居の室内であり、馴染みのカフェや広場の雑踏であった。時代と場所は違えど、ほとんど画家の身体の延長線上にあるかのような空間に向けられた眼差しは、ある種の親密な雰囲気を醸し出す。ナビ派の画家たちは象徴主義の批評家たちによっていみじくも「親密派」と呼ばれるようになるが、安藤の作品にも、描く主体と描かれる客体を容易に切り離すことのできない、両者の結びつきによる親密さが漂っている。それは安藤が「絵画でパープルームを観察し続けてきた」[3]ことに起因するだろう。そして「絵画的に」パープルームや相模原の街を見るにあたり、安藤がこの数年取り組んできたのが漫画やアニメーションの制作であった。『パープルームのまんが』を見ると、パープルーム予備校の日常が、そのまま絵画になりそうな構図の連続と、ゆらゆらとうごめく線で描写されており、輪郭線と呼べるような線は最小限に抑えられ、安藤が多種多様な線の戯れによって情景を浮かび上がらせようとしていることがうかがわれる。そしてこの試みは、今回出品されたアニメーション作品《光のサイコロジー》にも引き継がれている。漫画とアニメーションに共通する大きな特徴として、モノトーンによる表現であることに注目したい。安藤の眼に映ったすべての情報は光と影に還元され、白と黒のコントラスト、ハーフトーンの濃淡によって時間と空間が再構成される。漫画に見られた揺らぎのある線は、アニメーションでは文字通り揺れ動いている。ところが、この揺らめくモノトーンの世界に、突如として鮮烈な色彩が挿入される。

そしてこの色彩は、on Sundaysの地下の壁に展示された絵画作品の色彩へとつながってゆく。過去の安藤の作品を知っている者ならば、今回現れた色彩の鮮やかさに驚いたことだろう。安藤によると、この色彩はモノトーンの漫画やアニメーションの制作を経て出てきたそうだが、その迂回はナビ派の画家たちが師と仰いだルドンが黒の時代を経て色彩を開花させていったという逸話を思い起こさせる。さらによく画面を見ると、安藤は地の色として、グレーやグリーン、オレンジ、ブルーといったかなり明るい色彩を用いていることに気づく。その上に多種多様な筆触が重ねられることによって、じっと目を凝らすと奥行きやモティーフが徐々に立ち現れてくるのである。かといって、空間構成やモティーフ同士の関係性が完全に把握できるわけではない。そこには図と地の戯れによる絵画空間の攪拌がある。この手法は、他ならぬナビ派時代のボナールやヴュイヤールも得意としたものであった。彼らは油彩を描くときの基底材としてしばしば暖色系の厚紙を用い、その上にタッチを重ねることで、一目では把握することのできない絵画空間を生み出した。さらにその関係性をカンヴァスに描いた油彩画にも敷衍し、同じ色の地を、壁紙や女性のドレス、絨毯などあちこちにちらちらと見せることで、観者の知覚を惑わせる効果を引き出した。安藤はおそらくこの手法を意識的に用いているだろう。

言うまでもなく、このような絵画空間を作り出すためには、地の色が完全に覆われていないことが条件となる。つまり、ナビ派の理論家ドニが掲げたような「色彩で覆われた平面」[4]ではなく、レースの網目のように、あちこちに隙間を開いたままの筆触を重ねることが必要なのである。安藤の作品においては、その筆触も一様ではなく、細かく打たれた点や、油絵具特有の粘りのある塗り、かすれたような筆跡、水彩画のように淡い滲みなど、様々な筆触が重なり合いながら一つの画面を形成している。こうした筆触の多様性の背後には、とりわけ画面上を漂うように置かれた細かなドットには、やはり梅津からの影響を指摘することができるだろう。そして安藤の画面における奥行きは、遠近法や明暗ではなく、多様な筆触で置かれた絵具の重なりそのものによって暗示されており、それが描かれたモティーフと部分的に重なることで、私たちが絵画空間を朧げにも読み取ることを可能にすると同時に、細部に至るまでの境界や前後関係を認識することを阻む。さらに、一見平坦なベタ塗りで覆われているように見える面でも、粘度の異なる絵具が異なるストロークで縦横無尽に並置されている。こうして安藤の絵画における筆触の網目に目をこらすと、カンヴァスの上に筆で絵具を置くという行為の、無限の広がりを感じることができるだろう。ボナールやヴュイヤールの絵画に学びつつ、梅津をはじめとするパープルーム予備校に出入りする画家たちとの対話を通じて、次第に自身の表現の道を歩み始めた画家安藤裕美の今後の展開を楽しみにしたい。

[1] 「パープルーム大学物語」ARATANIURANO、2015年7月11日-8月15日。
[2] 19世紀後半のパリに数多く存在した画塾とそこでの教えについては以下を参照。アルバート・ボイム「第3章 私設アトリエのカリキュラム――その教師たち」『アカデミーとフランス近代絵画』森雅彦、阿部成樹、荒木康子(訳)、三元社、2005年、105-164頁。
[3] 以下に引用された安藤の言葉。梅津庸一「本展について」『安藤裕美 個展「光のサイコロジー」』パープルーム、2020年、n.pag.
[4] ドニは1890年に発表した「新伝統主義の定義」という論文で、次のように書いた。「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的に、ある秩序のもと集められた色彩で覆われた平面であることを思い起こすべきである。」(筆者による翻訳) Maurice Denis, « Définition du néo-traditionnisme », Art et Critique, 1890.

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《雨の降る相模原》2019 Photo by Fuyumi Murata
(noteの仕様上、トリミングされています)

レビューとレポート第12号(2020年5月)