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経験に勝るものなし

人は人に対して基本的には尊敬の念を持って接するのがいいとは思うがまぁ好き嫌いの感情があるのでうまくいかない場合が多い。

そんな私でも、ご年配の方には丁寧に接している。
私の働く歯医者では、ご年配の患者様が多い。
今はコロナで行ってないが、月に二回デイサービスにボランティアに行くのでもちろんご年配の方相手だ。
お茶のお稽古でもご年配の方は多いし、書道のお稽古だって先生が何と言ってもご年配だった。

だから普通より少しはご年配の方と接する機会が多いので、そのような方々に対して思うことは色々とある。

尊敬なんかできないわよ、と思えるような方であっても、やはり経験は倍ほどあるのだ。
何も考えずに生きてきたとしても、経験はどう頑張っても到底追いつかない。
経験の濃さも大切だが、目立った人生ではないように見えても、その人ひとりひとりの濃い物語があるものだと思う。

だから私はご年配の方々とお話しするのは楽しい。

デイサービスでは少々おボケあそばされてる方も多いのだが、そんなことは気にならない。
昨日の晩ご飯何食べたか、さっきまで何していたとか、トイレ行く途中だったとか、そんなことどうでもいいのだ。
私は僭越ながらボランティアでは書道を教えるというか、まぁご一緒にさせていただいているのだが、少人数でサロン状態になるのでおしゃべりも多い。
そのおしゃべりが私は何より楽しい。その方々の人生を垣間覗かせてくれる。昔の話になると生き生きと話してくれることが多いからだ。戦時中、戦後の話も、人それぞれ境遇が違うので全く異なった物語、そして見解。
苦労した苦労した、と話す人も多い。
かと思えば穏やかな人もいる。
ご年配になるとその方の人生のコンステレーションを読む最終段階に入っているのかもしれない。
どのように人生と向き合ってきたかが表れる。

歯医者の患者様には、だんだんと痴呆がお進みになられて、人格までも豹変する方もいらっしゃる。
いつもにこやかに色々とお心遣いもしてくださっていたご婦人が久々にいらっしゃたら、形相まで変わられて、ずっと文句を言ったり喚いたりなさる。
昔は威厳たっぷりでふんぞりかえって偉そうにしていた男性は、ニコニコ朗らかになられ、何かにつけ「ありがとう!ありがとう!」と可愛らしいおじいさんになった。ちなみにそのおじいさんの奥様はそんなご主人が可愛く思われたのか、ほとんどご自身のことができないおじいさんに対していっそうお世話を細やかになさり、そのおじいさんはいつ見てもパリッとしたおしゃれな格好で身嗜みがきちんと整えられている。歯も完璧に仕上げ磨きされている。

ご年配になられ、おボケあそばされるともう誤魔化しが効かない、それまでのその方の心模様が露呈してしまうのだと思う。

私の祖母は少々痴呆が入っている。今は施設でお世話になっているので身の回りの心配はいらない。
施設に入ってもらうのは仕方ない。母も母の兄も引き取れない事情があるのだろう。
にしても、あれは非常に不自由な空間だ。
そう思うのはこちら側にいるからなのか。
祖母は全てを受け入れ、全てに感謝して、順応している。
もう半分涅槃の境地だと思う。
祖母は他のご年配同様、時代の荒波に揉まれ、激動の人生だったと思う。
しかし恵まれた人生ではない、と私が思うのは非常に失礼だ。
人に哀れみの念を覚えるのは適切ではない。
その人自身がその人の人生を判断するのだ。
そういう意味で、祖母は非常に幸せな人生だったのだろう。

人は誰しも老いる。
そう思うと目の前にいるご年配の方は数十年後の自分だとも思える。

でも介護とかの実際にお世話されている方のご苦労はまた別の話。
身内になると急に複雑な思いになるから。
母の介護すると考えただけで無理。

あーそれと、私はご年配の方に対してきちんと敬語を使わない人が好きではない。
「はーいおばあちゃん、これ持っていくねぇ」
とか子どもに対する言葉で接している人。
身内以外に敬語なしで会話するのは失礼だと思う。
もちろん信頼関係があって家族同然ならばいいのだけれど。

だって言葉が一番わかりやすい尊敬を示せると思うのよ。

まぁ私の勝手な考えですが。

まぁご年配の方とお喋りするのは思いの外発見がありますよという話。

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