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行くも行かぬも自由、どちらにしても素敵

もうようちえんは夏休みに入っているが、姪は夏休みに入るちょっと前から「ようちえんに行きたくない」と言うようになっていたそうな。

わたしも妹もなんとなくそうなるんじゃないかと予想はしていた。

何故なら、姪の通ってるようちえんの方針になんとなく違和感を感じていたからだ。

でもその違和感ってのはわたしや妹の思う価値観と違うなっていう引っかかりなだけであって、決してその幼稚園を非難しているわけではない。合う子どもや親もいるんだろう。

そもそもは姪が幼稚園に行き出してからたまに幼稚園での再現をしてくれるようになっていたので、そこから違和感を感じていたんである。

朝に歌う歌があるそうで、歌詞の引っかかった部分だけ抜粋するのだが、「センセのお言葉よ〜く聞いて♪」と言う部分よ。なんで引っかかるの?と聞かれると感覚的なものなので説明しにくいのだが、それってなんか「先生の言うことは絶対です」というようなニュアンスを感じたのである。しかもそれを何故歌にして園児に口に出させるのだ?という妙な怖さを感じた。

あとは、先生に話しかける時は敬語じゃないといけないそうで、最初それを聞いたときは綺麗な言葉を使うことはいいことだし教えてくれるのは大変結構なことだなぁと思っていたんだが、肝心の先生はというと園児には敬語を使っていないこともしばしばらしい。なんじゃそら。それじゃ言葉遣いの教育ではなくて長幼の序を強制的に植え付けてるだけじゃないか。その感覚は自然に芽生えるものじゃないのか?というか自然に芽生えるように育てたい。

それから、先生のまねーといって、ピアノを弾く真似をして、途中急に振り返って、走り出したかと思うと、誰かを掴んでる風に、「だーめーでーしょっ」と言って押さえつける動作をしていた。ふむ。園内の一コマなんだろうが、まだ3歳4歳の子が横に並んでおとなしくみんなと一緒に歌を歌い続けるのも無理な話なのでは?と思うのはわたしの勝手な思いなんだろうか。

という違和感たちよ。

その結果がようちえん行きたくない、に繋がったのではないかな。

秩序を学ぶのはいいことだし、それは子どもも学びたがっていることだと思う。

だけど矛盾があってはいけないと思うのだ。

子どもは矛盾を見過ごすことができない。

もしその矛盾に対しての子どもの感情を抑え込もうとするのなら、それははっきり言って間違っている。

むしろ何の疑問もなく受け入れていた矛盾に対する疑問や反抗心を持つことを、子どもに教えてもらっていると思うのだ。

そしてこれが難しいところだろうなと思うのだが、個人と個人、子どもと一対一で接すると割と大人も懐深く接することができると思うのだが、一人で20人くらいの子どもに接するならば、個は薄れると思うのだ。薄れた方が統率が取れるので積極的に薄めようとしてしまうだろう。文句も言わずいうことを聞いてくれる子どもを良い子のお手本にしてしまうだろう。

これからどんな教育がいいのかとかは分からない。だけど、ひとりひとりが考えていく時代なのだろうなと思う。
そしてその自由が認められる時代になっていくのだろう。

学校は行きたい人だけ行ったらいい。

〜しなければいけない、から卒業する時代なんだろう。

だからこそそんな時代を生きていくであろう姪には、古い学校(ようちえん)の体質を経験させてトラウマを植え付けたくはない。

あーでも私自身に学校教育にトラウマがあるからってその視点ばかりで姪に押し付けないように注意だな。ニュートラルって意識しないと難しい。でも軸がないと決断できないし。あくまで私の意見、といっても子どもは大人の影響を受けやすいし。これ考え出したらどうどう巡りだ。

でも、絶対姪の生きる未来は楽しいと思うんよね。
それは私の生きる未来でもあるのだ。

学校行っても行かなくても、私の姪は素敵なんですよ。

そして全てのこどもたちは、素敵なんですよ。

ってね。

ごきげん麗しく!

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