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祝福の道と、本と

昨日、ちょっとした考察をしていたが、インスピレーションは他でも降り注いでいたようで。

昨日は入院中の祖父の面会に行っていた。今後の療養プラン相談のために九州から父のお姉さんであるいとこのおばさんも来ていたので、夜は祖母、両親、おばさんで食事をした。

おばさんと会うのは昨年11月にいとこの家に行った時ぶり。久しぶりでもないのになんとなく緊張したが、滞在中はいとこ家族の在り方に居心地の良さを感じ、何か魂レベルでの安堵を覚えたことを思い出した。食事が済んで雑談をしているときでもまだ緊張したままで(おそらく両親の前だといとこの家で出していたような私は出現しづらいのだ)、母とおばさんが喋っていたのを聞いているだけだった。その中で、ふとおばさんが「なんだっけ、あの、シャーリー・マクレーンのプレイなんとかって本読んでそのとおりだな〜って思ったのよぉ」と言ったのをわたしは聞き逃さなかった。シャーリー・マクレーンといえば。親友がその母と読んでよかったと評していた著者じゃないか。「アウト・オン・ア・リムじゃないんですか?」と聞いたら、「あ、それとは別のやつだわー」と言っていた。

シャーリー・マクレーンのアウト・オン・ア・リムはいつか読もうと思ってるリストには入っていた。親友から聞いたあとでも他のタイミングで目に入ったり聞いたりしたこともある。でもわたしは読んでなかった。

そろそろ読もうかな、と自然に思えた。そして今朝アマゾンで調べるも、電子書籍化されていないことを知る。今わたしは本を所有したくないので基本は電子書籍なのだがないものは仕方ない、買うか。。。。いやまてよ。図書館にあるかも。と、蔵書検索をかけたら少し遠い図書館にある。ちょうど今日は晴れているし、歩いていくことにした。

いつも通りの道。ついでだから喫茶店に寄り、そして川沿いの桜並木を眺めながらまた歩いた。途中から不思議な気分になっていた。桜の花が舞い散っていて、光は優しく周りを包み、人々はまばらに座ったりゆったり歩いたり、皆、笑顔だった。犬、こども、木々、花。この世の天国かと思うほどの美しい光景。つやつやの新緑に触れたくて、つるつるした感触を確かめた。木の造形がどうなっているのかもっと見たくて、近くで眺めた。ハーブの香りに気づいてマスクをおろして嗅いだ。そして歩いても歩いても、それが続いた。その川沿いの道が長いおかげで、すっかり浸されてしまった。わたしは泣きそうになっていた。呼吸は自然と深く、マスクの下の唇の両端は持ち上がっていた。

「美しい」「有り難い」それだけ心の中で何度もつぶやいていた。それしか表現できなかった。

あぁ、正直に言うと今日は生理の日だったので「あ、痛いなぁ」も感じていたな。それがわたしの現実感を引き止める唯一の感覚だった。


そうして図書館に到着し、蔵書検索コーナーでシャーリーマクレーンを検索して2冊の情報をプリントアウトし、よく見ると一般開架コーナーにはなかったので職員さんに頼んで蔵書コーナーから持ってきてもらった。受け取り、他に何かないかなと少し館内を歩いた。久しぶりの図書館で、わくわくした気持ちになりつつ、心理学コーナーに行ってみた。すると男性が真剣な面持ちで棚を見つめているので、邪魔にならないように彼が去ったあとに見ようかと棚の正面にある海外作家コーナーに向き、少し進んだところでお腹が痛くなってきたので本を抱えてしゃがみこんだ。海外作家コーナーなぞ興味はない。推理小説とかそんなんばかりだろうと思っていたし、並べられた本たちを見るともなしに棚の全体を見つめるふりをしてしゃがんで休憩していた。そうすると目に飛び込んできたのだった。それは、今抱えている本の著者、シャーリーマクレーンの、「カミーユ」という本だった。必然と確信していたかのように滑らかに手が伸び、抱えている本の上に重ねた。そして手続きを済ませて、またあの天国の道を辿りながら、ようやく、なんとはなしに、この本が一番、今私に必要な本だったのかなという考えが浮かび上がってきた。心理学コーナーに男性がいなければ、海外作家コーナーでお腹がいたくてしゃがみこまなければ、わたしは決してこの本を今のタイミングで手にとってはいなかっただろう。と、落ち着いて考えてみたのだった。

帰りのバスを待つまでに紅茶を飲みながら「カミーユ」のプロローグを少し読んでみた。翻訳本は読みにくいのが常だけれど、翻訳者が山川夫妻だからか、すぐに染み入るような文体で、そして最初の1ページ目で、スピリチュアル用語に少しも戸惑うことなく内容が心に入ってくるのがわかった。

そして家に帰ってから、諸々の用事を済ませ、また続きを読む。この本は、著者の巡礼の旅の体験について語った内容であり、そしてまだ6章目の途中だけれど、1章目の内容でやはり、これは今読むべき本であり、導かれた感覚に確信が持てた。もちろん読了してからでないとわからないものだし、思っていた内容とは違ったわ、という結果もあるかもしれない。それでもいいのだ。今わからなくてもいつかはこれはとても意味を持ってくる出来事なのだと思える。

それくらいに今日は高揚していた。いつもなら憂鬱な生理痛だって、祝福された空間の前ではなんでもないことのようだった。

あの道、あの川沿いの道を歩いていた時の私の目は、わたしの表現力が追いつかないほどの圧倒的な祝福のフィルムだった。映画でもみてるような、頭のしびれるような甘い悦楽感に酔って、写真におさめることもしなかった。もはや、今、死ねたらいいのにと思うくらいの極端で複雑な充足感に戸惑うくらいだった。

でも、生きていると面白い。そして全ては美しいのだと、また気付かされた日でございました。


さて。今日はたくさん歩いたし、本も読むし、そろそろベッドに入ります。

ごきげんよう、おやすみごろり。


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