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こどもとわたし

妹の育児ノイローゼ予防に週に一度は姪に会いに妹の家に泊まるのが習慣になっている。

姪が産まれるときには分娩室で妹の罵声を浴びながら妹のお尻を汗だくで押したし(疲れすぎて出てきてしまったあとの感動は薄くこんな大きなものが出てきたことが驚きなのと妹が縫われているのを横で見ていたので「痛くないん?」と聞いたときの妹の「陣痛に比べたらこんなんどうでもいいくらい」にただただ恐怖を覚えた)、出産後は一か月妹の家から職場に通って乳児の世話をしたので、数時間おきのミルク(搾乳だったので)とおむつ替えで寝不足になりながらどう考えても可愛く思えない小さな命に対して、「お地蔵さんににしか見えない」と無理やり仏性を見出そうとして乗り越えようとした記憶しかない。

↑まさにこの画像を妹に送って似てる似てると言っていた

そうはいってもわたしは単なるアシストしかしていないので本当に妹はすごいなぁと思う。

よくいわれるように労力をかけた対象を大切に思う現象がわたしにももちろん起きていて、弟の三人目出産も家政婦兼シッターとして派遣されたんだが、やはり姪のほうがどうしてもかわいく感じてしまうんである。

もう姪は三歳で、自分でできることも言葉も増え、想像力も思考力も記憶力も立派な人である。妹は「もうこの子は私よりも頭いいわ」とわかっている。
彼女に足りないのは経験だけである。(と、安富先生が言ってたことに納得。「こどもに足りないのは経験だけ」)

そんな彼女にわたしはいつも教えてもらっている。
思い出させてくれるというか。
わたしは姪を素晴らしい友達だと思って接している。
いつも新しい発見があるし、話をするのも、うたうのも、おどるのも楽しい。
彼女のみるものはすべて輝いている。その眼差しを分けてもらうかのようにわたしは遊びながらも深く考える。

姪は春から幼稚園だったのだがコロナでまだ登園できていない。
それをわたしはひそかに嬉しく思っている。
幼稚園で学ぶことも多いのはわかっているけれど、幼稚園も学校のようなものなので彼女の可能性を狭めてしまうこともおおいに考えられるからである。
人の目を気にして自分を殺すことがないように、枠に囚われなくても大丈夫なのだと、安心感を与えるのが、それだけが経験を先に積んだ大人としての役目なのだろうと思う。

わたしは妹に非常に感謝している。
姪を産んだこと、愛を持って育てていること、わたしを姪に会わせてくれたこと。

出産もせずお世話も時々、しつけもしないので姪には好かれるのいいとこどりの叔母パワーで、こどもとの気づきを糧にしたいなと思っている。

今日はこのへんで。
ごきげんよう。

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