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あの赤い果実はトマトだった

今日は早めに出てまた図書館へ。母がマザーテレサの本を借りてきてほしいと言うので請け負った。マザーテレサの本はとんでもない量で、読解力の低い(ただの事実)母向けに読みやすいよう児童書コーナーで伝記とやさしくマザーの言葉を意訳した絵の多い本を借りてきた。母は面白いことにキリスト教の教えにとても惹かれているようだ。宗教でもなんにせよ精神的なことに興味を示すのはいいことだと思う。表面をすべるだけで終わらなければいいのだけど。借りた本をわたしも少し読んでみた。児童書はよく書かれていた。「愛とは、自分が傷つくとわかっていても差し出さずにいられないもの、自分が傷つかずに愛は与えられない」なんとも深い御言葉がたくさんでてきてた。これをこどもが読んでどこまで理解できるのだろう。ある程度経験したうえでようやく響いてくる言葉たち。母にもどうぞ響きますように。


アウト・オン・ア・リム読了。カミーノもそうだけど、様々な大切なことが散りばめられすぎていて、一気に落とし込むというよりは反芻して、これからの自分に起こる何かと照らし合わせて理解が深まるような、不思議な読み物だった。明日は一日家にいるから、落ち着いてノートにまとめ直して、それからまた考え直そう。これから先もふとしたときに少しずつ気づきがあるのかもしれない。この2週間はほぼこの前世だとかそういうのにどっぷり浸っていたなぁと振り返る。内観はよくするほうだと思っていたから、自分自身への探究心は精神世界にも及んでいるつもりだったけれど、すごく浅いところをかき混ぜていただけなのかもしれないと気付かされた気がする。精神世界と心理学の世界はとても似ているし重なってるけれど、心理学はやはり学問なだけあって、少しだけ狭くて限界があったんだろうなぁ。死後の世界、前世のことなんて実はちゃんと考えたことなかったことを思い知らされた。まさにこのシャーリーのように、あると思っているし、それは全然不思議なことではないとわかっているけれど、ほんとうのところは認めてなかったのかもしれない。でも、とうとうそこを見なければいけないような、そんな導きでこの本たちに出会えてよかったなと思う。自分の中の疑問たちが綺麗に解けたわけではないけれど、これでないと説明ができない、と一種の降伏を持って、そして特にカミーノに関しては途中息がつまるようになりながら“ここにかかれてるのは本とうのことだ”と引き込まれていった自分が居た。そして彼女がいうように、それは準備が整ったときに目の前に現れるのだということがまさにここ2週間の間のわたしのタイミングだったのだろう。だからなに?そしてわたしに何が起こるのだろう?そんな野暮な思いよりも、深く探求できる喜びが、それだけが収穫なのかもしれない。



あ、そうだ、忘れないうちに書いとこ。(忘れないと思うけど)記しておくべきかと。昨日書きもれてたから。昨日ある友人と喋っていたときに、また前後の話を忘れたのだけど、(何故そんな話になったのかわからない)トマトの話になって。瞬間に、トマトの赤くて丸い感じ、中身もまた赤くやわらかいイメージを頭に思い描いたとたんにわたしの目線は右上に逸れて、過去世で見た男性が頭に載せていた籠の中の果実を見ていた。そして数秒友人の話が入ってこなかった。何か違うことを考えたね、と指摘を受けてハッとした私は謝って話の続きを待った。そしてトマトはその昔「悪魔の実」として誰も食べなかったらしい、という話であった。あまりに衝撃で、でもわたしは確信していた、村人に分けようとしていた果実はトマトだったのだ。最初はりんごかと思っていたけれど中も赤いからなんなのだろうと思ってたのだ。

トマトだったとわかったからといって別にあの過去世の内容がかわるわけではないのだけど、わかった!っていうそういう閃きみたいなものってとても爽快。そして本当に楽しい。


それではごきげんよう〜〜〜

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