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鏡を覗く

職場に大好きな同僚がいる。

あえて大好きと表現したのは嫌いな人もいるからだ。

気の合う同僚とは、共感を得やすい。

これっていいことだよね、これはよくないよね、と思うことが根底の部分で同じなので話がしやすいし、仕事もスムーズだ。
彼女たちは根が優しい。相手のことを相手の立場になって考えることができて、そしていい意味で大雑把。フレキシブルなたおやかさを備えている。
仕事に対してはほどほどに真面目。
それが私の理想的な姿なので彼女たちを好ましく思う。

一方、嫌いな人は。
自分の仕事にボーダーラインを独自に決めて、やりたくないことはやらない。それは一つの仕事の姿勢として認められる。しかしながら如何せん相手のことを慮るということをしない。つまり優しくないのだ。
優しさを突き詰めて考えるとこれまた難しい話になりそうだが、私が考える優しさとは合わない行動をするので優しくない、という見方になる。

考え方が違うとこうなるのか、と思ったことの一つに、昼休みに話を聞いていたらどうやら最近同じマンションの自分の子供と同い年の子どもの登校の付き添いを自ら進んでその子の母親に申し出たが、登校途中自分の子どもはてきぱきと歩けるのに、その子はマイペースで歩くのが遅くて困ると。そしてその子に笑顔もなく愛想がなくて可愛くないという。
私と同僚たちはその話を聞いて固まってしまった。
小学校一年生に愛想を求め、マイペースに歩くことに対して苛立ちを覚えるなんて。
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子どもは自由にしてたらいいと思う。
自分の子どもができることを他の子どもにも求めなくてもいいと思う。

何だか聞いてて悲しくなった。

あぁそんな考え方をする人もいるのだなぁと思って。

鏡の法則とは言うけれど、今の場合、嫌いな人が何かをしてくるわけでもないし直接的な攻撃とかはない。

と言うことは、鏡で跳ね返ってきているわけではなくて、鏡で覗いてるんだなと思う。

好きな人、好ましいもの、それらに気付き、際立たせるためのキライ、合わない、って思う感情。


実際、こんな小さな職場で好きな同僚に恵まれていることが有難いことだなぁと思える。

嫌だな〜と思う感情がなければ好きだな〜と思う感情もないのだろう。

もっとマクロに見るとその嫌いな人さえも嫌いとも思わないくらい人生劇場の大切な登場人物ではあるのだけれど、多分この「これ嫌だな」って思うのが必要だから目の前にいてくれるんだろうな。

これ嫌だなって思ったら「だから私はこういう方が好きなのよ〜こうしましょ〜」という方向により動けるし。

感情は行動への起爆剤かしらね。
良きも悪きもどちらでも。


明日は休みでご機嫌よろしゅう。


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