「モノ化」と「性的消費」について

性的な差別や搾取と表現規制の是非に伴い、近年よく見かけるようになった言葉に「モノ化」や「性的消費」という言葉がありますが、その定義は非常に曖昧で恣意的に使われがちなため、建設的な議論の妨げになっています。

これらの言葉を分析してみると、大きく分けて2つの意味を持っていることがわかります。

(1)実在の女性を「モノ」として性的に搾取すること
(2)想像上の女性を性的に表現した「モノ」を消費すること

意味合いが根本的に異なるこれらを、曖昧かつ恣意的に混同した議論が多く見受けられます。

前者については、あまりに当たり前過ぎるため、つい論じる必要性を忘れてしまいがちですが、先鋭的フェミニスト層は自らの主張を都合よく展開するために、あえて前者と後者を混同したままの議論を好みます。

しかし、表現の自由を齟齬なく考える上では、前者と後者を切り分けることがなによりも重要です。

ここでやっと本題です。

表現とその消費である「モノ化」と「性的消費」は許されるものであるか。
もちろんながら、表現者でありロリコン漫画家の自分としては許されるものとして考えたいところです。

まずは、先鋭的フェミニスト層がよく主張する「女性は一方的に消費されるだけの性」という意見について考えてみましょう。

これは社会的な問題ではなく単純に性差でしかないので、一方的な消費になるのは仕方のない問題なのです。

大前提として、人間は「人間である以前にヒトという動物」です。
他の種よりも知能が高いだけの動物です。

動物である以上、お腹は減りますし、排泄もしたくなります。
しかし、食い逃げをしたり、道端で排泄する人はめったにいません。
それを理性と高度な社会性で我慢できるからこそ人間なのです。

とはいえ、我慢ができたとしても、その根底にある生物としての生理現象や本能自体を消すことはできません。

「おなかが減ったと思うな!」「うんこしたいと思うな!」と言われても、どだい無理な話です。

動物のオスとメスには性差があり、ヒトという動物である人間も同様に男女で性欲のあり方が大きく異なります。

男性の性欲は非常にプリミティブで即物的なため、どちらかといえば食欲に近いものだと言えます。

たとえ空腹ではなくとも美味しそうな料理を見て「美味しそう」だと思うことは避けられませんし、空腹であれば「なんでもいいから食べたい」と思うことも避けられません。

しかし食欲と違い、性欲においてその対象となるのは食べ物という「モノ」ではなく、ひとりの人格を持った人間です。
当然ながら「モノとして搾取」するわけにはいきません。

他者を尊重できる理性のある人間であれば、その本能的な欲求をコントロールすることができますが、抑圧された欲求は蓄積していきますのでどこかで吐き出さなくてはなりません。

そのために自慰の必要性があります。

そして自慰に必要な「妄想」を補助するための表現物こそが「消費」されている「モノ」の実体であり、自慰の必要が少ない女性に比べて「一方的な消費」になっている理由なのです。

女性に対して「エロい」と思ったり「セックスしたい」と思ったり、勃起することそのものは、男性にとっては生理現象です。
生理現象は咎められることではありませんし、それを代償行為として発散するための妄想は「内心の自由」であり、それを補助する表現物に関しても「表現の自由」で担保されるべき問題だと思います。

それらはすなわち、女性を性的搾取から守るためのものでもあります。

もし殺したいほどに人を嫌ったとしても、それ自体を咎められることはありませんが、もし実際に殺人を犯したのであれば罰されるべき話です。
欲求そのもを咎める権利はだれにもありません。

代償行為の自慰の補助として、創作物に性的な創意がふくまれることが多々ありますが、そこで「消費」されるのは実在の女性でもなければ、表現物ですらなく、消費者の脳内で一時的に生成された表現物のインスタンスです。

エロ漫画やアダルトビデオなどでは、女性をモノとして搾取する表現が用いられることが多々ありますが、これは実際にモノ扱いすることを肯定しているわけではありません。

ダークヒーローが悪人を殺しまくる映画があったとしても、独善的な私刑が肯定されているわけではないのと同様です。

フィクションをフィクションとして良識を持って消費するリテラシーの有無こそが大事であり、そこから逸脱した犯罪者がフィクションに責任をなすりつけること自体が恥ずべき悪なのだと考えます。

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