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「おすすめを教えてください」という言葉への違和感

人に何かを勧めることは素晴らしい行為だと思う。
それは自分の一部を、或いは自分の人生の断片を相手に渡す行為だ。

ただ僕は「おすすめを教えてください」という言葉がものすごく苦手だ。
これを言われると、混乱し困ってしまう。

そして、大抵、関係性が浅い人にこの言葉を言われることが多い。
正直僕は「なぜあなたにお勧めをしないといけないのだろう?」と疑問を持つ。

そもそも「お勧めする」という行為は、勧める側が自らの意思によって勧めるから「おすすめ」になるわけで、他者から「おすすめを教えてください」と言われてお勧めするのはお勧めではない。それは単に要求に応えているだけだ。

「お勧めする」というのは、もっと主体的なものであるし、自分が大切にしているものを明かす行為なわけなので、そこには本人の望むタイミングがあり、それが尊重されるべきだと思う。

それから、「おすすめを教えてください」と言われて困る理由として「相手が何を求めているのかが分からない」ということがある。

例えば「おすすめの小説を終えてください」と言われたとする。

その時僕は、青春系がいいのか、ミステリー系がいいのか、恋愛系がいいのか、ホラー系がいいのか、純文学系がいいのかと迷ってしまう。

そこで「どんなジャンルがいいですか?」と聞いてみる。
仮に相手が「ミステリー系がいいです」と答えたとする。

ただ僕がそこで好きなミステリー系の小説をお勧めしたところで、それがその人の好みに合うかは分からないなと思ってしまう。だってミステリー系と言っても色々なミステリー系があるからだ。そして相手のニーズを細かく聞いていくのがだんだん億劫になっていく。

やっぱりお勧めをするからには、相手に気に入ってもらう必要があると思うし、お勧めをした時点でそこには勧めたという責任が発生する。


つまり何が言いたいかというと、相手のことを知らないのに、相手との関係性が浅いのに、何かを勧めることは難しいということだ。

もっと言うなら、それはすごく不誠実な行為だと思う。

恋愛に例えるならば「“好き”と言って」と伝えられて即座に「好き」と返しているようなものだ。

この場合は、好きと伝えることを要求する側も不誠実だし、すぐに好きと答える側も個人的には不誠実だと思う。なぜなら、そこには感情が何も乗っかっていないからだ。

“好きを要求されたから好きと言った”

そんな無機質なコミュニケーションに何の意味があるのだろう。
そもそも主体性が全くない「好き」を聞いて何が嬉しいのだろうか。

少し話が逸れたが、「おすすめを教えてください」に対する僕の違和感は、今述べたことと近い部分があると思う。

しかし僕も弱い人間で、こんなことを語っておきながら「おすすめを教えてください」と言われておすすめを教えてしまうことがたまにある。それはその場の空気を壊したくないからとか、相手を不快にさせたくないからとか、そういう理由だ。

ただ、本心としては簡単に教えたくない。
そこに勧めたいという強い思いがないのに、勧めたくはないのだ。

性格がひん曲がっていると思われるかもしれないが、これが僕の正直な考えだ。


僕は好きな人に、信頼している相手に、大切な存在に、お勧めをしたい。

それも自分が好きなタイミングで。

今思うと、これは少し身勝手な行為なのかもしれない。
なぜなら、相手がそれを望んでいるかは分からないからだ。

でも、僕はお勧めをするだけで自己完結的な満足感を得るので、相手が勧めた本を読まなくても、勧めた映画を観なくても、勧めた音楽を聴かなくても特に気にしない。

僕がお勧めをしたいと思った気持ちが相手に伝わればそれでいいと思っている。

僕にとって「おすすめ」は一種の告白なのかもしれない。

そんなことを最後にふと思った。

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