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好きな人って星みたいだ

好きな人が死んだ。


その知らせを好きな人の恋人から電話で聞いた。

僕は初め、好きな人の恋人は冗談を言っているのかと思った。

でもその重苦しい沈黙に、僕は全てを察してしまった。

電話越しに聞く彼の声は糸のように細く、とても弱々しかった。


なぜ好きな人は死んでしまったのだろう。


僕はその理由が気になってたまらなかったが、彼の声の奥にある底知れない悲哀を思うと、何も聞くことができなかったし、そもそも言葉が喉につかえて上手く声を発することができなかった。



後日分かったのは、彼女は自殺をしたということだ。


僕が見ている世界は、一瞬にして灰色に塗り替えられた。


濃淡もなく、明暗もなく、強弱もなく、単調なグレーが地平線の果てまで続いているようかのようだった。


何を見ても何も思わず、何を聴いても何も感じず、何に触れても冷たく、何を食べても味がしなかった。



そして数日経ってから僕は声を殺しながら泣いた。


どうすれば気が紛れるのか分からなかったし、気を紛らわそうとすること自体が間違っているかのような気もした。


彼女は今この世界に存在していない。


それは僕にとって何を意味しているのだろう。


僕は好きな人が以前お勧めしてくれた、小川洋子さんの『密やかな結晶』を再度読むことにした。


その物語は、簡潔に言うと、島の人々が少しずつ記憶を失っていくという話だ。


美しく透明感ある文体で書かれたその物語は、繊細かつ深遠で、まるで彼女の存在そのもののようだ、と当時の僕は思っていた。


しかし今読んでみると、心の内側からずっと誰かがノックをしているかのような、不思議な余韻や恐怖が僕を襲ってくるのを感じるのだ。

この感覚はなんなのだろうか。

彼女は何を考え、何を想い、どのような意図で僕にその小説をお勧めしてくれたのだろう。

もしかしたらあれは何かのサインではなかったのか。

僕に何かしらの助けを求めていたのではなかったか。

あるいはどうしても伝えたいメッセージがあったのだろうか。


そんなことを考えても答えがわかるわけもなく、僕はますます悲しい気持ちになるだけだった。


とりあえず僕は『密やかな結晶』を再読した後、彼女がいなくなった実感と痛みをよりはっきりと認識することになった。


目を背けようとしていた苦しさに輪郭が与えられ、どこへ逃げてもこの現実は消滅しないと悟った。


僕はもう彼女に会うことはできない。


夜光虫のように光るあの眼をもう見ることはできないし、儚げで少し掠れたあの声をもう聞くことはできないし、憂いを含む明朗なあの表情にもう触れることはできない。


僕は彼女に自分の想いを伝えられなかったことを深く後悔した。


この想いはこれから先ずっと心の中に残り続けるのだろうか。

あるいは、いずれ風のようにどこかへ飛んでいき、消えていくのだろうか。


僕は彼女のことが好きだった。


否、今も狂おしいほどに好きだ。


皮肉にも、人は何かを失った時にその失ったものへの想いを強く実感してしまう。


失う前に気づくことができればいいのに、それが分かっていてもできないのが僕らの弱さだ。


やはり僕は彼女に想いを伝えるべきだったのかもしれない。


しかし彼女には恋人がいた。


だから今まで僕は自分の気持ちを内側に押し込め、確かにあるはずの感情をないものとして生活してきた。


そして彼女と適切な距離感を保ってきた。


もしも彼女がこの世からいなくなることをあらかじめ知っていたら、僕は彼女に想いを伝えただろうか。


分からない。


彼女はすごく優しいから、僕の想いをしっかりと受け止めてくれるだろう。


でもそれと同時に、気持ちに応えられないという罪悪感を抱かせてしまうのではないだろうか。


何が正解だったのだろうか。


考えても分からない。


そして無論、これらを確かめることもできない。


あらゆる感情や想いが心の中でずっと蠢いていた。


しかしそれをどこにも向けられなかったし、どこにも発することができなかった。


僕は生きる気力を次第に失っていった。


感情の抑圧が続いていくと、人は簡単に生命力を失ってしまう。


彼女の存在の有無にここまで左右されてしまう自分の脆さに情けない気持ちになった。



それから僕は1週間くらい半ば死人のように生きていたと思う。

あるいはその時間は1ヶ月くらいなのかもしれないし、1年くらいなのかもしれなかった。

ただ一つ確かなことは、今が夏の終わり頃だということだ。


死にかけの蝉が鈍い羽音を立てて地面を這いずり回り、路傍の向日葵は病人のようにうなだれて二度とその顔を上げることはなかった。




好きな人がいなくなってから、僕は誰にも会うことはなかった。


一人で酒を飲み、一人で煙草を吸い、一人で食事を取った。


そして1日の大半を寝て過ごした。




夕風が晩夏の香りを漂わせるある日のことだ。


なぜかよく分からないが、その日は無性に海に行きたくなっていて、まるで何かに導かれるように僕は海に向かっていった。


足を進めるごとに波の音と潮の匂いがはっきりとしてきて、気付けば眼前にひどく美しい海原が広がっていた。


僕はその時不思議と懐かしい気持ちを覚えた。


海に来たのはいつぶりなのだろう。

少なくとも彼女がいなくなってから海に来たのは初めてだと思う。


遠くに浮かぶ夕陽が海を照らし、波は消えかけのろうそくのようなオレンジ色がゆらゆらと揺れている。


しばらくの間、僕は海を眺め続け、波の音とそのゆらめきを感じていた。


次第に夕陽は海の中へ沈み、闇が空と海を染めてゆく。


地平線の方には小さく光る何かがいくつかあって、いつまでも消えなかった。


静かで、永遠で、世界が終わる前のような、清らかな夜だった。




僕は彼女に会いたい。


どうしようもなく会いたい。


彼女が死んでしまうなんて思いもしなかった。


彼女が世界からいなくなるなんて考えたこともなかった。


なぜ君は僕に何も言わずに死んでしまったんだ。


僕は君にもう一度会えたら気持ちを伝えたい。


君に恋人がいるだとかそんなことは関係がない。


ただ僕は伝えたいんだ。


でももう伝えられない。


もう会えない。


もう存在していない。



僕は目の前にあった白く無機質な流木を蹴りつけた。


それは薄い波に呑まれていった。


このまま僕も波に呑まれて生きることを終えよう、そんなことをふと思ったが、結局はただ呆然と真っ黒な海原を眺めていることしかできなかった。


僕は彼女を脳裏に浮かべてみた。


どれだけ鮮明に彼女の姿を思い浮かべてみても、彼女の実体に触れることはできず、かえって虚しくなるだけだった。


ああ、虚しい、やるせない、悲しい、寂しい。



海は一切の希望を与えなかった。


そろそろ家に帰ろう。


そう思ったその時、波打ち際に人影が見えた。


誰だろう。


目を凝らしてみるとそれは女性だった。


近づいてみる。


ノースリーブの白いブラウスに紺のロングスカート。

肩甲骨あたりまで伸びた長い黒髪。

色素の薄い肌。

夕闇の中で浮かぶ夜光虫のように光る目。



好きな人だった。


僕は今夢の中にいるのだろうか。


でも今そこにいるのは紛れもなく僕の好きな人なのだ。



僕は語りかけてみる。


しかし彼女からの返事はなく、柔らかく微笑み返すだけだった。


久しぶりにみる彼女の姿は全てを忘れるような美しさだった。

僕は彼女の姿を目に焼き付けようとする。


しかしそれは瞬く間に消えてしまった。



耳が痛くなるほどの静寂が訪れる。


今のは何だったのだろう。


あれは僕の過去の記憶が作った幻影だったのだろうか。


頭が混乱してくる。


立っているのが辛い。


僕は砂浜に仰向けになることにした。


しっとりとした冷たい砂を全身に感じる。

夜空が見える。

無数の煌めく光がちりりと震えている。


空気が澄み渡っているからだろうか。


星に手が届きそうなほど、随分と近くにあるように思えた。


僕が今見ている星も、もしかしたら幻影なのかもしれない。


少なくとも今僕が見ているのは星の光であって、星そのものではない。


そう言えば、オリオン座のペテルギウスはすでに爆発して消滅しているのかもしれないという話を聞いたことがある。地球から約640光年だから、僕らが肉眼で見えている光は640年前の光ということになる。


その話を確か好きな人の恋人から聞いた気がする。


僕が今見ている星も、もしかしたら既に失われているのかもしれない。


いずれにしても僕は今過去の星を見ている。


まるで記憶のようだな、と思った。


彼女の存在は今、物理的に存在していない。


しかしそれは、星の光が僕らの元に届くように、かつては確かに存在していたのだ。


今存在していないことは、存在していなかったことにはならない。


その事実は不思議と僕の傷を少しだけ軽くしてくれる気がした。



僕は身体を起こし立ち上がる。


ひんやりとした夜風を頬に感じた。


砂の表面が少し動く。


濃密な夏の匂いがする。



なぜかふと、以前好きな人とした会話が蘇ってくる。



「君はなぜそんなに過去の話をしたがるの?」


「過去が好きだから。」


「過去の話も楽しいけど、これからどう生きるかの方が大切なんじゃない?僕はもっと君のこれからの話を聞きたい。」


「未来は私にとって語るべきことではないの。過去の方が大事。」


「それはなぜ?」


「過去というのは永遠性の象徴だから。」


「永遠性の象徴。」


「そう。永遠性の象徴であり、自由自在に意味づけが可能な物語でもある。」


「君が言っていることは時々よく分からない。」


「分からなくてもいいわ。ただ私は永遠性を大切にしたい。だから過去が好きなの。」



その時彼女から聞いた言葉を、当時の僕は上手く理解することができなかった。



しかし今では少し理解できるような気がする。




僕の持っている記憶は、誰にも奪えないし、誰にも壊されることはない。


たとえ彼女が僕の目の前から姿を消したとしても、関係性が終わりを迎えたとしても、彼女が生きていたこと、一緒の時間を過ごしていたこと、言葉を交わしたこと、それらの記憶は失われることはない。


この記憶を僕が保持していくことは、僕が苦しみ続けることを意味する。


でも僕は一生この苦しみが癒えなくてもいいとさえ思える。


忘れることは解放されることだ。


だけど僕は解放を望んではいない。


なぜなら、忘れることは彼女を本当の意味で失ってしまうことになるからだ。


僕が彼女を心の中で持ち続ける限り、彼女は不在でありながら存在し続けることになる。


ずっとこの喪失を、この痛みを背負って生きていきたい。


そうやって僕は生きていかなければらならない。


それが僕の人生なんだ。


それが僕の生きる道なんだ。


彼女のことを忘れることは僕自身の喪失であり、僕の人生の終わりだ。


僕が僕のままで生きていくために、この記憶を、この過去を抱き締めて生きていきたいと思う。




僕は海を後にし、家に戻ろうとした。


少し歩くと、どこからか破裂音が聞こえたので、反射的に顔を上げた。


花火だった。


それは夢のように儚く、一瞬の花を開いて、遠くの空の中に消えていった。


辺りがしんと静まる。


やがて草木の方から、涼しげな夜の虫の鳴き声が聞こえてきた。


世界はもう秋に移り変わろうとしていた。



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