故郷
嫌な事があって眠れない夜は、海を見ると不思議と心が落ち着いた。
海面に映ってきらきらと揺れる街灯り。繁華街の夜景が照らす水面は、華やかで喧しく、だが孤独を癒す灯りだった。あの灯りの一つひとつの下に人がいる。
都会に住む私は、暮していくための糧を得るのに心がいっぱいで、自分の孤独から目を背ける事を覚えた。
物心ついた時にはすでに両親はいなかった。老いて幼い私に依存してくる祖父母と暮らしていた日々。祖父母が家に泊めた若い男が、部屋に入ってきたときに、何かが音を立てて崩れ、私は家を飛び出していた。あれが「家」と呼べるのであれば、だ。
老いた祖父母を見捨てる形になったのは心が痛む。田舎で日々の買い出しに苦労してないか。諸々の手続きに困っていないか。生活は出来ているのか。
一人暮らしのアパートの閉塞感に耐え切れず、もうすっかり夜も更けていたけれど部屋を出て波の音が聞こえる海岸の公園まで出る。
「帰るの?」
ふいに声をかけられて、声がする方を見る。
「違うの。あの人たちの顔、もう見たくないもん」
子どもの時からずっと一緒の、私の唯一の親友だ。
「でしょうね。あなたを汚い男に売ろうとした下衆のところへなんて行っちゃだめ」
親友は、恐ろしいほど美しい顔を歪めて嗤う。
「あなたの故郷は、青い青い海よ。わかっているはずよ」
海は冷たく、いつもと変わらず内に色々なものを秘めながら、こちらを伺っている。
「あなたは何故、ここに拘っているの」
親友はいつの間にか手に持っていた、赤い蝋燭に光りを灯すと岸壁にそれを置くと、美しい鱗に蝋燭の光りを反射させて、身を翻して海へと入る。
「さあ。早くこちらへいらっしゃい。海は優しく全て受け入れてくれるわ」
彼女の冷たい指先を握り返すと、私ははじめて心の底から安らぎ、同時に突然冷たい海からの風が吹いたと思うと、遠雷が聞こえた。ひんやりとした波は、私を優しく歓迎してくれているようだった。
「今夜は嵐になる」
不思議なことに、赤い蝋燭が、山のお宮に点ともった晩は、どんなに天気がよくても忽たちまち大あらしになりました。
----- 小川未明 赤い蝋燭と人魚より
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