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『現代日本の思想と行動』を読む

精神の無効性

 三島は『現代日本の思想と行動』と題する文章の中で、政治運動と精神運動と芸術運動を以下のように区別している(決定版36,110ページ)。

わたくしのやつていることは政治運動のやうに見えますけれども、わたくしは全然べつの原則に立つてゐる。その精神の原則つていふのはなにかつて申しますと、これは無効性だと思ふんです。まつたく役に立たない。そして、あるひは精神的影響を与へるかもしれませんが、それこそサルトルのいつたやうに、飢ゑた子供にパンを与へることができないつていふのが精神の限定といひますか、宿命的にもつてるリミットですね。さうすると、インドのやうな飢ゑ死にする人がおほぜいゐるところに行つて、高遠な哲学を説いても、その人たちは飢ゑ死にしていく。そこにパンを与へるのが政治だと思ふんですね。わたくしどもは絶対にパンを与へる能力がないんです。

 ここでの三島によれば、彼の運動(恐らくは楯の会などの活動)は、政治運動ではなく精神運動であり、両者は全く別物である。すなわち、政治運動の原則は有効性であり、有効であること、役に立つことが求められる。たとえば、飢えている人たちにパンを与えるべきである場合、実際にパンを与えることが政治運動には求められる。

 それに対して精神運動の原則は無効性である。すなわち、有効であること、役に立つことがあり得ない。上記のような場合にも、飢えている人にパンを与えることがそもそもできない。

精神の責任性

 それでは、上記のような場合精神運動は、飢えている人を飢え死にさせたままにしておいてよいのだろうか。三島によればそうではない(111ページ)。

精神てものは、はじめから無効を覚悟して進まなきやならないんだが、その場合に、その精神といふものは、どこでその飢ゑてる人たちと結ぶのか。これは、いちがいにいへないむづかしい問題ですが、わたくしは、その先にあるものは精神の責任といふものが、どつかで生ずる。わたしはなにをいつた、なにかを主張した、なにかを考へた、その結果、わたくしの思想に影響される人があつたらば、それに対してわたくしは、芸術としていつたんでないから責任をとらなきやならない。

 何かを考え、主張し、それに影響される人がいた場合、もしそれが芸術運動であれば、責任を取る必要はない。しかしもし精神運動であれば、責任を取る必要が出てくる。

腹を切るしかない

 では一体どのように責任を取るのであろうか。三島は続けて次のように言う。

しかし、それについて、わたくしは政治家でないから、結果的な責任をとるわけにいかない。わたくしは、それは行為責任だつていふふうに考へるんです。ごく概略に数式で申しますと、政治といふものは有効性の上に成り立つて、結果責任である。精神というものは無効性の上に成り立つて、行為責任である。行為責任といふことは、極端にいへば、腹を切ればいいんで、それ以外なにもないんだと。自分の身に引き受ければ、それでいいんだといふことになるんです。

 結果責任とは恐らく、たとえば上述のような場合、飢えている人がもしパンを与えられなければ責任を取るというような意味であろう。では、行為責任とはどういう意味であろうか。それは恐らく、結果責任が、もし良い結果がもたらされなければ責任を取るのに対し、行為責任は、行為をしなければ責任を取るというような意味であろう。

 しかし三島によれば、精神運動はそもそも自己の主張を実現し得ないのである。つまり、行為できないのである。ということは、精神運動の場合、常に責任を取らなければならないということになるだろう。そういう意味で三島は最後に「腹を切ればいい」だけでなく、「それ以外にない」と言っているのであろう。このような意味での精神運動として三島は、吉田松陰と陽明学の名を挙げている(111, 116ページ)。

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