逢うは別れの...Zen Shiatsu(禅指圧の縁)

1995年に書いた文章です。この頃、私の小さな指圧教室に大勢の外国人が出入りしていました。この中に書いたうちの何名かはその後Facebookで交流が復活しました。いきなりパソコン画面に知り合いかもと出てきて驚きました。現在の状況がはっきりしている人に関しては附記しました。

逢うは別れの(禅指圧の縁)

1995年6月

 

 逢うは別れの始めと言います。これは白居易の「和夢遊春詩」の句「合者離之始」を出展とすることばで、逢った人とはいつかは必ず別れなければならないという無常(無情ではありません)を表した有名な詩句です。(大辞林参考)

 会った人だけでなく、出会った風景とも必ず別れなければならないことは昔の人ほど身に染みて分かっていたのだと思いませんか。現代と違って新幹線も飛行機も自動車も電話も無い時代には、遠方の人と次に会えるという確たる信念など持てなかったに違いありません。

 また、世に戦乱が続き、病気に対しても手をこまねいてただ看病するのみという厳しい時代にあっては、人との出会いと別れは今よりずっと真剣なものであったの思うのです。 戦後五十年もの間、国内においては全く平和であったという希有な時代を生きて来た者としては、別れをさほど深刻には考えません。「またいつか会えるさ。」という思いがあるからです。

 茶の湯の文化の基本理念のひとつに「一期一会」がおかれているのは、四百年続いた戦乱の世に生きた千利休の切実な思いの反映に外ならないでしょう。同時に武将達に茶の湯が愛されたのもその理由でしょう。

 最近、私は三名の親しい外国人と別れを経験しました。二人はアメリカ人、一人はカナダ人です。仲よくしている外国人がぽつりぽつりと帰国することはいつものことなのですが、特に親愛の情をもって交流していた人達が三人ほぼ同時に帰国するというのは初めてでした。そこで冒頭のことば「逢は別れの始め」が身をもって響いてきたのです。

 今日のように飛行機が飛び交う時代となると、たかが日本とアメリカやカナダ、いつでも会いに来ることができるし、行くこともできるという気持ちはあります。現に彼らが三名とも「今までは自分が日本に来たのだから次はそちらが我が国にくる番だよ。」と同じことを言い残して帰って行ったのです。おそらく今の日米加の距離は、江戸時代の人達が江戸と京都に離れ離れになることよりずっと身近な距離であることは間違いないでしょう。

 彼ら三名はわたしの指圧教室の生徒であり、身体調整のクライアントでもありました。(彼らは特に病んでいたのでなく、養生法として調整を受けていたので、患者ではなくクライアントと呼びます。意味は心理療法に訪問した来談者のこと。広告の依頼主の意味もあります。)

 五月末に帰国した米国人女性のBさんが初めてここへやって来たのははもう5年くらい前になるでしょうか。アメリカ人男性と結婚している日本人女性Sさんの紹介で指圧が習いたいとやって来たのです。ところが通訳と期待したSさんがすぐに妊娠され、通訳なしで教えなければならなくなってしまいました。しかしこれはいい経験になりました。はるか昔に習った英語の単語を乏しい脳みそを絞りながらの会話はそれは楽しいものでした。わたしのとんでもない英語を聞かされた彼女はいい迷惑でしょうがしかたありません。ここは日本なのですから。

 体の細いBさんはその体躯通りに神経質で日本の生活とはうまく馴染めないようでしたが、それでも多くの日本人の友達を作っていろいろな活動をしていました。彼女はつごう12年近く日本で暮らしましたがついに日本語は上手になりませんでした。そのかわり彼女の英語は日本人にとってとても理解しやすいもので、わたしの拙い英語力でも互いに話し合いができたのです。その理由の一つとして彼女が上げたのは興味深いものでした。

 彼女の親族に耳が聞こえない人がいたのです。Bさんはその人が理解できるように、唇の動きやことばの使い方を工夫しながら成長したので、自分の英語は日本人にも理解しやすいのではないかというのです。これはおもしろい見解です。

 そもそもなぜ外国人が指圧を学びにくるのでしょう。
 海外に指圧を広めたのは、国内に指圧ブームを作った例の「指圧の心母心。押せば命の泉湧く。」で知られる浪越徳次郎先生です。そのブームを学術的に固めたのがわたしの恩師増永静人先生でした。

 増永静人先生は五十才を過ぎてから外国人の弟子ができて、必死で英会話の勉強をしておられたのをよく記憶しています。カッセトテープを片時も話さず、外国人生徒と英語で丁々発止とやっておられました。発音はお世辞にもうまいとは言えませんでしたが、ともかく根性で聞き取り、情熱で理解させるという感じ。いかに三高・京都帝大という秀才コースを履歴に持たれる先生とは言え、敵国語禁止の時代に十代を過ごされた方ですから大変だったと思います。

 先生のそうした努力で指圧は海外に広がり先生の本の英語訳(数カ国後に訳されています)はベストセラーになりました。今日でShiatsu(指圧)は英語としてかなり知られています。そのお陰でわたしも外国人生徒を持つことができたのです。なにしろ、何人かの生徒はアメリカで買った増永先生の英語版テキスト「禅指圧」Zen Shiatsuに一杯赤線を引いてぼろぼろになったものを持参したのですから。

 わたしは東京の先生の治療センターにしばらく泊まり込んで勉強させていただいたのですが、そこにイタリア人Mさんがいて、彼とはなんとか英語でコミュニケーションをとっていました。そのとき、言葉などなんとかなるという経験があったので、Bさんとも案外平気で指圧授業ができたのです。

 Bさんの夫のお父さんが亡くなり、年老いた姑ひとりになったので帰国して世話をすることになり、急遽アメリカへ小学生の娘さんを連れて立ちました。嫁が姑の面倒をみるというのは日本と同じですね。
 Bさんの夫R氏は日本にあと数年残って大学教授を続けるそうです。
 「タンシンフニン(単身赴任)デス。」
と寂しがっていました。

(附記:このご夫妻の娘Fちゃんは大学生の時日本に二ヶ月来て、わたしのところの指圧を勉強していきました。Twitterで交流が繋がっています。)

 このBさんから多くの外国人生徒が派生しました。
 Bさんは自分のパートナーに友人のアメリカ人女性Sさんを連れて来たのです。彼女はアースデイ(地球の日)という世界的な環境保護市民運動の名古屋のリーダーで長良川河口堰の反対運動などでも活躍していましたが、2年前帰国して、マッサージの学校に進みました。驚いたことに、わたしのところで勉強していた時間が考慮されて、向こうの学校の授業時間が短縮できるのだそうです。わたしはSさんに頼まれて証明書を2通書いて送ったのです。

 SさんはD君というハンサムな米国人青年を連れて来ました。今度はそのD君がカナダ人のT君という大きな熊のような青年を伴って勉強するようになりました。
 D君はニューヨークに住む母親が肺ガンで余命いくばくもないという理由で帰国し、その後アフリカに2度ほどわたり、現在ニューヨークに戻っているそうです。今、彼の弟のC君が調整に来ています。D君がカメルーンで買ったお土産のお面が施術所に今も掛かっています。

 熊のようなT君はいったん帰国して大学に戻り、先生の資格を取りしばらくパートの教員をしていましたが、前から興味のあった禅の勉強のために再来日、広島県にある国際禅堂で9カ月修行したのち、今年の5月末に帰国しました。
 帰国の数日前、わたしのところに調整を受けがてら別れの挨拶にきました。プレゼントに白隠禅師の「夜船閑話」という健康法として有名な本をくれました。その表紙裏にメッセージが書いてありました。

Misima-sensei,
You are a perfect example of living Zen.
Your work, your effort and your compassion
shows the true spirit of a BOSATSU.
Thank you, Gassho(合掌).
                   呑海

 呑海というのは得度を受けた彼の仏弟子としての名前です。
 メッセージの意味は、気恥ずかしくて訳せません。辞書を片手にどうぞ。
ことほどさように彼は真摯に禅を日常生活の中に取り込み、あらゆるものを我が師匠としてとらえた行き方を念願しているのです。実に人当たりのよい好青年でした。カナダにはJさんという以前からのガールフレンドが待っていますから、近い将来結婚の報が入ることでしょう。彼女も私のところに出入りしてました。

(附記:カナダ人TさんとJさんは子どもを一人得て三人で仲良く暮らしています。Tさんは二度来日、息子さんも一緒に来ました。また、私の息子がカナダへ旅行したとき大変お世話になりました。今もJさんは毎日Instagramを更新しているのでカナダの雄大な風景を楽しむことが出来ます)

 T君からA君、A君からS、R、P、M、R、C・・・という具合にもう数えきれない程の外国人がやって来ては帰国していきました。

 さて、親しかった3人のうち、Bさん、T君については書きました。最後のひとりはJ君です。
 J君はアメリカでアマレスを8年練習し、日本では合気道を2段までとって帰国しという格闘技の好きな青年です。優しい顔と頑丈な体と周囲に対する気配りの行き届いた心の持ち主でした。その幅広い心くばりはアメリカの大学でユングの心理学を学んだためでしょうか。
 現在アジア各国を旅行中で、9月からアメリカのマッサージ学校へ通うそうです。わたしは彼のために入学に必要な紹介状を書きました。

 この紹介状の中にアメリカ的な考えを表すおもしろい例があります。
 たくさんの質問のうち、彼の人生観、知的能力、他人から見た長所、短所などはまだ分かるのですが、中に、

  彼がこの学校に入ることで我が校はいかなる利益を得るか

という項目があったのには驚きました。

 生徒として我が校に入学するからには当校から生徒に利益(知識・技術・資格)を与えると同時に生徒も我が校に利益をもたらす人物でなければならないという考えでしょう。何につけ自主性・自立性を重んじる国民性です。自分を中心に世界を眺め、そのために負う責任を明確に自覚することを大切にするのです。なるほど、こうことがアメリカ的なのかと深く考えさせられました。

 その点日本人は自分が益を得ることばかり考えて、先方に自分がいかなる益を与えられるかをあまり考えないのではないでしょうか。その代わり相手の責任もあまり深追いしないのです。自分も権利を主張する代わりに相手の権利も尊重するという二方向性の視点、これは日本人も大いに学ばねばならない点でしょうね。

 今、大リーグで野茂投手が活躍しています。その実力と活躍をアメリカ人も素直に評価してくれています。すごいものはすごいと。それに対して、横綱曙が勝つと座布団が舞うという日本人の狭量さ。自分の応援チームが不利になるとグラウンドにものを投げ込むという幼稚さ。敵味方を越えて素晴らしいプレーを評価できないのです。今後、野茂投手のように日本人もどうどうを自分の実力を示していけば、だんだんこうした島国的劣等感はなくなっていくのでしょうか。そうありたいものです。

 J君は5年間の日本での生活でアメリカの独立心と日本人の相互にもたれ合う生活を体験し、今は日本の方が暮らしやすいと言っています。名古屋が一番リラックスできるとも言います。確かに彼の目配りには日本的な印象を受けました。いつも皆の調和を取ろうという正確でした。どちらかというとアメリカ人は集団の中で常にリーダーであろうとします。

 その点ではJ君は日本に住むほうが気楽なのかもしれません。しかし、彼は他国の文化を素直に認める腹の大きさを持っています。タイの文化も、韓国の文化も素晴らしいもの、同様に日本人も好き、つまり、物事の良いところを素直に掬い上げることができる性格なのです。これはアメリカ人というより彼の独自のものでしょう。国際関係で練り上げられた真の国際人と言えるかも知れません。こうした好漢が日本にも大勢増えることを願います。

(附記:彼は帰国後マッサージ師になりましたが、その後Naturopathyというアメリカ独自の医療のドクターになって海の近くにオフィスを構え、暇があるとサーフィンをしています。彼ともFacebookで再開できました。)

 今、わたしの教室にはアメリカ、オーストラリア、イギリス、オランダ、ニュージーランド、ブラジル、ルーマニア、カナダ、日本の人が来てわいわいがやがややっています。そのわたしとオランダ人の会話の仲立ちをルーマニア人が英語でするという奇妙な組み合わせ。

 そこに共通している感情はとにかく指圧の勉強を通じて、みんなでうまく仲良くやっていこうというものです。この互いに互いを思いやること、これは洋の東西を越えた人類の持っている共通の優れた感情であり、知性なのだと思っています。そしてそれは努力を必要とするものであることも特記しなければならないでしょう。