俳句とからだ 167号 句集『式日』安里琉太を読む

連載俳句と“からだ” 167

愛知 三島広志

句集『式日』安里琉太を読む
 『式日』(左右社)は新鋭安里琉太(1994年生)の第一句集である。名前から想像できるように沖縄県出身で、俳句甲子園全国大会に出たことがあるという。句集全体の印象は構成が緻密で、静謐ながらもかなり挑戦的である。栞や章立てなど句歴十年の若い才能の仄めきを充分に知らしめる句集となっている。表紙に書かれた「到来し、/触発する/言葉。//書くことは、/書けなさから始まっていると、/今、強く思う。」は安里の書くことへの認識の深さを示して共感できる。書く対象は内在するが言葉は彼方から到来するのだ。両者の幸福な出会いが一句に結実する。
読み進めていくと「瓶」や「枯・涸」といった謎のキーワードに引っ掛かる。否、引っ掛けられて立ち止まる。

並べたる瓶に南風の鳴り通し
空瓶は蜥蜴を入れてより鳴らず
初雪が全ての瓶に映りこむ
コスモスの中の蛇口が枯れてゐる
式日や実柘榴に日の枯れてをる
涸るる沼見てをれば背を思ひだす

どの句も写実の顔を見せているようだが実は一筋縄では読めない。句がメタファーとして立っているからだ。瓶、南風、蜥蜴、初雪、コスモス、蛇口、式日、実柘榴、沼、背、涸れ。これらの言葉が重層な意味を含みつつ胸を抉ってくる。言葉達が共闘してこちらに訴えてくる。

 集中、先人へのオマージュも多く見られた。そこまでやるかとにやりとさせられる。

 あをぞらのさみしさにふる種袋
 しづけさに五月のペンは鳥を書く
 ひかり野に蝶が余つてゐるといふ
饑ゑつくす蛇の眠りはみづのやう
たそがれの雲間の凧をふと見たり

それぞれ原石鼎、寺山修司、折笠美秋、赤尾兜子、高浜虚子が顔を出す。ここにも作者の強かさを垣間見ることが可能だ。俳句の歴史を負うという決意の現れか。いずれも模倣や剽窃ではなく、本歌取りでもなく、先人の精神をなぞろうとしているようだ。伝統とはまさに先人の誠に迫り、かつ後輩へ繋ぐ努力をすることだ。安里の句は先人の句をなぞりつつその深奥に触れ、己の句として再構築していると思える。

岸本尚毅の文体に似た句を幾つか掲載しているが、これらもその一環であり先人への畏敬と挑戦と思われる。

ひいふつとゆふまぐれくる氷かな
なつかしき雨を見てをる麦茶かな

著名な岸本の「手をつけて海のつめたき桜かな」を彷彿とさせる。中七から下五への流れが繋がりつつ寸断されているのだ。以下の句も感性も素晴らしい。

摘草やいづれも濡れて陸の貝
永き日の椅子ありあまる中にをり