俳句とからだ 174号 岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』

連載俳句と“からだ” 174

愛知 三島広志

岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』
『記憶における沼とその他の在処』(青磁社)は岡田一実(1976年生)の第三句集である。このタイトルは散文としては破綻している。本多勝一によると、誤読を避けるため修飾語の語順には4つの原則があり、単語の親和度の強弱によって配置転換が求められる。「記憶における」は「沼」のみに係るのか、「その他」にも係るのか。「の在処」は「その他」だけを受けるのか、それとも「沼とその他」を受けるのか。 
金原瑞人は帯文に「これは俳句の掟破りなのか、革命なのか」と記している。おそらくタイトルも敢えてご誤読を惹起しようという企みなのだろう。

火蛾は火に裸婦は素描に影となる

「影となる」のは裸婦のみか、灯火に群れる蛾の影も視界に飛び交っているのだろうか。炎と消えた火蛾の儚い命と対照的に、素描という影を与えられて裸婦の命が永遠性を獲得したとも読める。

瓜ふたつ違ふかたちの並びけり

よく似ていることを瓜二つという。一つの瓜を切った二つだからそっくりなのだ。縦に割った二切れが、実は微妙に異なっているという指摘だろうか、それとも単に違う形の瓜が二個並んでいるのだろうか。画は単純だが多層に読める。

裸木になりつつある木その他の木

句集名にある「その他」が使われている。ここでは「裸木になりつつある木」と「その他の木」が並列され対比されているのだが、いや、そうではないかも…

囀をはづれて鳥や地を歩く

囀る群れと一羽の鳥の対比、地を歩くという経時が詠まれている。

このように分割と経時を示す表現がよく見られる。短い俳句に形と時間を意識的に重層的に読み込もうという試みだろうか。金原は、俳句は「世界を想起させる触媒のようなものだ」と思っていたが、この句集を読み「一句がそのまま世界として立ち現れる様を目にするような気持ちになってしまった」と告白している。

以下の句には誰もが共感する普遍的な体験が描写されている。

碁石ごと運ぶ碁盤や梅月夜
室外機月見の酒を置きにけり

句集の後半は特に生死を直視した深みのある句が多く登場し、前半の思索的俳句とは異なる作者の側面が読み取れた。 

墓いまだ吾の骨なしに灼けにけり
死者いつも確かに死者で柿に色