頭がぼんやりする×エージェント×#F4A57A / しの

 たとえば、爪をじっくりと眺めてみる。大きくも小さくもない私の爪は、当たり前のようにそこに存在していて、でも私以外の誰にも必要とされていない。去年買ったばかりのネイルポリッシュには、ずいぶん前に飽きてしまった。爪はペラペラになるし、ずぼらな私には向いていない。数週間に一度、爪磨きをするくらいの手入れが私にはちょうどいい。

「サトコはネイルとかしないの?」

 ユウイチくんが、放り出された私の手をとって爪をまじまじと眺めながら言う。その言い方があまりにも興味なさそうで、面倒くさいなら別にピロートークなんかしなくていいのに、と乾いた笑いがこみあげてくる。怒らせたら面倒だから、それをグッと飲み込んで、取られた手をそのままに力を込めて彼の手を握ってみる。

「……似合わないんだよね」

「似合うよ、絶対。女の子だもん。」

 “女の子”ねぇ……。

『料理をするときに、爪に色がついてるとゾッとするよな』

 初対面のときの彼の言葉を、彼自身覚えていないらしい。私の握る手に応えることはせず、小さなため息をついて背中を向けて本格的に眠りの姿勢へと入っていった。呼吸が深くなる背中に合わせて呼吸をする。こんなに簡単に、呼吸を重ねることはできるのに――。一筋、頬を濡らすものに気が付かないふりをして目を閉じる。夢のなかにいるほうが、ずっと気楽でいい。

 私が彼と出会ったのは、いわゆる友達の紹介である。

 友だちの彼氏の友だち、というめちゃくちゃありきたりな関係で知り合った私たちは、イタリア料理を食べながら互いのことを少しずつ教えあった。

 友人であるキリちゃんは、名前のイメージ通りにパキッとしていて付き合いやすい。大学からの付き合いで、つかず離れずの関係を心地よく続けてきている。その彼氏のショウくんは、少しぼんやり……というか、ほんわかしている。キリちゃんの分までのんびりするようにしている、というのは彼の談。それを聞いたキリちゃんには、思い切り足を踏んづけられていた。

 そんなショウくんのお友だちだから、ぼんやりしている人が来ると思ったけれどその予想は大きく外れた。キッチリと着こんだシャツとジャケット、ツヤツヤの革靴。仕事ができるを絵にかいて、そのまま飛び出てきた感じの彼は私をじろじろと不躾なくらいに見てきた。

「本当に悪いんだけど、今回だけ付き合って」

 という、事前に言われていたキリちゃんの言葉に納得がいく。あまり私が好きなタイプの人じゃないということを、彼女は言いたかったんだろう。

「……ショウくんとは違うタイプなんだね」

 隣に座るキリちゃんの袖をつまみ、耳にさやく。

「そうなのよ。ショウが、どうしてもって押し切られちゃって。連絡先とかは交換しなくていいから。適当に合わせて、ご飯食べて帰って。この店美味しいし。」

 確かに、早速運ばれてきていた前菜はどれもおいしくてちょっと感動した。少しばかり冒険して、いつもは頼まないようなものを頼んでもいいかもしれない、とメニューにじっくりと目を通してみる。

「サトコちゃんはさ」

「はぁ」

「休みの日とか何してるの?」

 低く響く声で名前を呼ばれて、メニューから視線を上げる。向かい合わせに座った彼は、そこそこモテそうで、いきなり名前呼びかよ、とか、今メニュー見てるの分かるだろ、とかそんな小言を消してしまえるような雰囲気があった。

「うーん、お家でゴロゴロですかねぇ」

「あー分かる。休みの日は、休むことに専念したいよね」

 俺はフットサルやってるよ! とでも言いだしそうな風貌のくせに、というのは偏見だな。昼間にビールの缶を開けるとちょっとした罪悪感でワクワクする、と笑った顔が私の予想に反していて、ちょっと掴まれてしまった。

 計算であれ、なんであれこういうところが私がちょろいといわれる所以であるし、騙され続けてきた所以でもある。

 キリちゃんに肘をつつかれながら、なんとなくで話が弾んでいく。初対面だから、私がちょろそうだから取り繕われていることが分かっていても、感覚だけは止められない。

 いつもの癖でサラダを取り分けていると、ユウイチくんがじっと私の爪を見ていることがわかった。

「……爪見るの、好きな人?」

「爪見るのが好きな人っているの?」

「知らないけど」

 なんだそれ、といって笑った顔が、それまで見せてきたつまらない表情じゃなくて、おっ!と思うと同時に、胸の奥がぎゅん! と高鳴る。いけないと思いつつ、キリちゃんからの冷たい視線を受け止めつつ、何事もないような顔をして話を続ける。

「ネイル、してないんだなって思って。」

「あー……」

 そういう、ね。ネイルしている女は料理ができないとか言い出すのか。やっぱり面倒くさいやろーだということは間違いないらしい。というか、ネイルを施して綺麗な爪を存分に生かしているキリちゃんから冷気を感じる。

「……爪のお手入れ、大変だから。私は雑に扱えるほうが良くて。ネイルしている人のほうが、色々と気が使える人なんだなって思うよ。私は、本当ぜんぜんダメ。」

「そうかなぁ……。」

 鼻で笑うようにしながら、ゾッとすると言い捨てる彼をぼんやりと見て、ろくでもないやつだなーと思った。

 でも、今こうして裸で同じ布団のなかで寝そべっている。私のほうがどうしようもないやつだ。

 結局、私はユウイチくんとその日のうちに連絡先を交換して、次に会う日取りまで決めてしまった。キリちゃんに報告すると、将来ツボ買わされそうになったら連絡して、と一言だけの返信。

 2カ月くらい前からだろうか、ユウイチくんが私を見てため息をつくことが多くなった。なんだかんだと付き合って、1年弱。都合よく扱われていることは分かっていながらも、情というものも湧いてきて“なあなあ”になっている。

 ユウイチくんは、なんだかんだ彼なりのやり方で私を大事にしてくれることも分かる。少しだけ横柄で、他人よりも少しだけ自分のことを考える時間が多いだけ。そして、そのことに彼だけが気づいていない。

 だから、彼は私が彼の様子が変わったことに気が付いたことを知らないはずだ。

 少し前に、会社帰りの彼を見かけた。初めて会ったときと同じネクタイに、同じジャケット。私をつかんだその笑顔を、彼はパンツスーツとピンヒールが似合うスレンダーな女性に向けていた。後ろ姿しか見えなかったけれど、きっとうらやましくなるような美人なのだろう。乗り換えられるなら、そのくらいの人じゃないと許せないなんて、なんて私は嫌な女なんだろう。

 そのまま二人は背を向けてそれぞれ帰途についたようだったけれど、それを見てからの私は時限爆弾を抱えたような気分だった。早く爆発してほしいとも思うけれど、変化はしないでほしいとも思う。

 キリちゃん曰く、ユウイチくんは「くだらない男」。そんな男と付き合っている私は、「くだらない女」になるんだろうか。

 私の次に、ユウイチくんが付き合うことになるであろうあの女性も「くだらない女」になるのかな。

「これ」

 部屋でDVDを見ていると、目の前に小さなドラッグストアのロゴが印字されている紙袋が差し出された。

「なに?」

 カサカサと音を立てて開くと、薄いピンクのネイルポリッシュとベースコート、トップコートが入っていた。何も言わず、手のなかにある3つの小瓶を見つめていると、似合いそうだと思ったから、とユウイチくんはぼそりとつぶやく。

 テレビでは、女スパイが爆発を背景に車を爆走させている。最近、どうしてか強い女性が登場するものばかり選んでしまう。それを、ユウイチくんは何も言わずに不機嫌そうに一緒に見る。女が主人公だと男が悪者扱いされていて不公平だと、ビールを煽っていたのはいつだっただろう。少なくとも、2カ月よりはずっと前だ。

 今日も我が家のテレビでは、女性が過激なアクションをこなしている。仕事帰りに、当然のように私の部屋を訪れた彼は、画面を一瞥して定位置に荷物を置いてシャワーを浴びに行く。シャワーから戻った彼はタオルを肩にかけて、髪の毛は濡らしたまま、私の目の前にネイル用品を一式手渡してきた。

「……ネイル、嫌いなんじゃなかったっけ」

 プシュッという小気味いい音が、爆発音に紛れて聞こえてくる。冷蔵庫から出した缶ビールを煽りながら、そうだっけ?といって「塗ってやるよ」と笑う。

「ユウイチくんが?」

「うん。俺、器用だから多分巧いと思うよ。」

 急かされるままに、手の甲を見せてテーブルに乗せる。小さいな、と呟きながら、確認するように丁寧にベースコートが塗られていく。うつむいた彼からは、シャンプーの清潔な匂いが漂ってきて、テーブルに小さなしずくを垂らす。本当は爪やすりで磨いてからのほうがいいんだけど、とか言いたいことはたくさんあったけれど、きっと不機嫌にするだけだ。されるがままに、温まったばかりの彼の清潔な体温を感じながら、私の視線はテレビの画面をとらえたまま。

「……意外と難しいんだな」

「ユウイチくん」

「……ん?」

「別れよっか」

 右の薬指に、爪以外の部分が濡れた感触がする。あーあ、失敗しちゃった。

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