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今思うと、長期入院は児童養護施設に入ったようなものだった。【毒親から離れること】

自分は大検資格から大学に入ったので、高校には行っていない。正確には卒業していない。その代わりと言えるかはわからないが、ある医師に身体的障害を指摘されたことがきっかけで、16歳から自転車で毎日病院に通院(リハビリ)していた。

17歳からは、1年間入院することとなった。
その期間は比較的心が安定していた時期でもあった。それは毒親から遠ざかることのできる環境だった。

家族と目を合わせることがほとんどなく、病院関係者と入院患者の中で過ごす日々は新鮮で、今思うと、児童養護施設で暮らしていたようなものだった。



入院するまで、基本、母親/息子という2人の生活だった。3歳からは祖父と祖母の家に同居していたが、祖母はガンで他界し、祖父と母親は仲が悪く、2人揃うときは食卓をピリピリとした空気が漂っていた。その険悪な空気は、母側のオーラが強く、「あなたは私と祖父、どちらにつくの?」のような選択をいつも迫られていた。
その当時はわからなかったが、今思うと、毒親の支配下にどっぷりと浸かっていた。

記憶にあるのは、毒親の感情と、一方的かつ絶対的な規範のもと、

「あなたは大人だから言うけど・・・」
といって毒親の大変さを聞かされ、
「あなたはいいわね、どうせ私は・・・」
と自虐的に見せつつ、
「あなたは私を慮ってこうするべきなの。」
と匂わせるコントロールが殆どであった。

そのような罪悪感を促すような過干渉を日々受けながら、毒親と過ごしていた。

当時、テレビ・本・ラジオといったあらゆる情報は常に親のフィルターがかけられ、自由に受け取れる状態ではなかった。

生活においても自分の感覚と感情を尊重されることはなかった。
常に、親の感覚と感情を上書きされていたような気がする。

簡単に言うと、食べ物に対してすら、自分の好き・嫌いがわからなくなっていた。自分が好きな食べ物は「毒親」が勝手に決めていた。
「”あなた”は何か好き?」
「”あなた”は美味しいと思うの?」
そのような確認をされたことはほとんどない。

いつも、嫌いな食べ物が食卓に並んでいた。

無意識に飲み込むことを拒否していたのか、口の中に入った食べ物を1時間かけて噛み続けることはいつものことだった。

そして、
「誰が作ったと思うの。生産者は大変なの。感謝しなさい。もったいない。ちゃんと食べてしまいなさい。」
と食事中言われ続けていた。

意地でも最後まで食べさせようとするため、食事が済むまで(毒親が満足するまで)4~5時間かかることは普通だった。

毒親の思い込みと独善性は性格的にすさまじく、食事に対する拒否反応の姿を見ても、毒親が理解しようとすることは全くなかった。


結果は、
小学校の健康診断で「栄養失調」との診断が出ていた。

高校受験は、自分の環境を変えたいとの思いがあったのか、中学の同級生が誰もいない、離れた高校に入学した。

それは、自分の所属する地域からの離脱願望だったと当時は思っていたが、実際は家庭(毒親)からの離脱願望だったのだろう。

結果、通学には公共交通機関が利用できる場所ではなかった。自転車で1時間かかることもあって、入学当初から高校が嫌でしかたなかった。


ある日、いつものように自転車を飛ばしながら高校へ向かっていた。途中、住宅街の路地を進んでいたとき、横道からランドセルを背負った男の子が飛び出してきた。

瞬間、ブレーキを握り締めたが、下り坂だったため、止まることができない。さらにブレーキを握り締めた瞬間、自転車の前輪がロックした。そして、自転車の後輪がアスファルトの地面から飛び上がった。自転車は逆立ち状態になりながら、男の子の目の前をすり抜ける。自分は男の子にぶつからなかったことを安心しながら、着地の姿勢を取らなければならなかった。

無我夢中で左手を自転車のハンドルから離し、アスファルトに掌を着いた。その瞬間、片手で逆立ちする形で、跳ね上がった自転車を右手で掴みつつ、男の子にぶつからないよう自分の体に引き付けた。

左肩によくわからない負荷が襲ってきた。そして地面に落下した。
暫くして体中が痛い中、男の子の驚いた顔と眼がこちらを向いていた。

自分と自転車が”ぐしゃり”とつぶれた姿勢で、男の子と眼が合った。

何か伝えなければならないのに、体中の痛みから、声がでない。

必死に言葉を紡いだ。


「大丈夫だった?自分は大丈夫だから、行って良いよ。」


戸惑いと、恐れている表情をした男の子は、直ぐには立ち去らなかった。

もう一度、

「大丈夫。」

と伝え、ようやく男の子はその場から立ち去った。

体が痛い。

左腕が棒のようになって、肩が動かない。

うずくまっていると、後ろから乗用車が迫ってくる。なんとか体と自転車を道路際に引きずり、しゃがみこんだ。

しばらくして、掌に痺れがあることに気付く。肩は動く。骨は折れていないようだ。何とか立ち上がり、先に進もうと思った。


……
なぜ、こんな痛みを抱えて、行きたくもない場所へ自分は進もうとしているんだ?
……


「やめた。」

前輪の歪んだ自転車を掴み、通学する方向とは逆方向に体を引きずりように、歩き始めた。




そこから先は、あまり覚えていない。

体がとても痛かったこと、進むのに凄く時間かかかったこと、そして、ようやく自宅に帰り着いたとき、
「学校に行ったはずだが、なぜここにいる?」といった祖父の表情だけが記憶に残っている。

その後、

「自分はなぜ嫌なことを選択し、嫌なことを我慢し続けなければならないのか?」

日々、そのようなことを考え続けるようになる。

閉ざされた家庭からの離脱、毒親の影響下から距離を取ることは、当時の自分に必要な時期だったのだろう。

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