私は、好き嫌いを言ってもいいの?【身代わり人形】
「なんで、ちゃんとしないの?」
親の機嫌が悪いとき、
よく聞かされた言葉だ。
《どう答えればよいの?》
自分の心が足踏みし始める。
呼吸が浅くなり、頭の中で答えを探す。
過去の事例を、思い出す。
・・・
自分は、一生懸命伝えようとしている。
そして、なにを言っても、怒られるしかなかったことを。
次に目の前の他人の顔を観察する。
自分の口を開こうとする瞬間、
喉が閉まる。
また、今までと同じように怒りの顔を私に向けて、
「なんで?!」
そう言われるに違いない。
そう、
自分が発する正しい言葉は、
自分の中にはない。
なぜか?の答えは、
目の前の表情を読み解き、
正しければ、
目の前にある他人の表情が少しだけマシになる。
・・・
自分は人形だ。
大人になった今でも、
ふとした瞬間、
他者とのコミュニケーションの合間に、
その感覚が浮かび上がる。
それは、
自分の気持ちを口にしようと、言葉が喉元まで達したとき、
自分の頭は硬直する感じ。
私の感情と感覚から得た、
私の真実で綴られた言葉では、
何も伝わらないから。
伝わったと思っても、
それは、自分の思いとは違うものとして、
言葉は変化し、一人歩きしていくものだと信じ始める。
そして、
頭が萎縮していく気分になる。
そのときの私は、一人歩きした言葉に合わせて、
《自分自身を演じる》
ことが、
世の中の摂理で、
ふつうのコミュニケーションだと思い込む。
子どもとして生まれたときから、人形となる役割が、
「子どもの役割だ」
と確信して親を観察するように。
・・・
《人形とは、他者から強制的に演じさせられるモノである。》
人形の語源は「ひとかた」だ。
《人形・人型(ひとかた)とは、
口寄せ、もしくは身代わりを目的とするもの。》
それは形代(かたしろ)とも言われる寄り代である。
身代わり信仰としての形代。
雛祭りの時期に行われており、体の調子の悪いところを撫でることで形代に穢れを移し、川に流す。人間の身代わりとされたモノだ。
身代わり?
そうか、私は身代わりだ。
毒親が成りたくてなれなかったピアニスト。
自分の子どもには、そんな機会を与えたい、
そんな、
善意のような悪意が、
押し付けられる。
「ちゃんと子どもの意志は確認したから!」
多分、そう言うだろう。
だけど、
ピアノを買うって、親が決めた後に、
子どもの意志を確認している。
そのくらいは、
人形として生きてきた子どもだからこそ、
わかる。
でも、あなたはわからなかった。
わかろうとも、
しなかった。
・・・
ある夏休み、水泳が良いからって、私をスイミングスクールに入れようと予約した。
私はとても嫌がった。
けど、色々な言葉をかけられ、丸め込まれ、断る言葉を発しても、受け入れられることはなかった。
結局、下半身がアトピーでただれてしまい、スクールに行ったのは初日だけ、プールに浸かることはなかった。
でもね、
それは、一週間前から私が自分で自分の皮膚をかきむしっていたから。
そして皮膚科の先生から、
「プールは無理ですね。」
と言わせるために、
夜中、必死にかきむしっていた。
・・・
子どものころの私の好きな食べ物、
あなたが覚えているものはまったく違うもの。
それは私が大嫌いだった食べ物。
私が好きだったものは、
あなたが嫌いだったもの。
だって、いつも私の好みを上書きしてた。
あなたの好みで上書きしてた。
だから、
いつも私が吐いてたことすら
覚えていないことに
あなたは気付いていない。
そして、それを私の真実として記憶してる。
今でも。
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