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マルトリートメントの素地

 いやnoteの更新さぼりすぎです・・・今通信課程で学んでいるのだが、月に2本以上のレポート提出ノルマを自分に課していて追われているのと、レポートで文章を書いているとそれ以上文章を書くモチベーションがわいてこなくなるという困った状態に。と言いつつ、何か書くことないかなぁとパチパチとキーボードをたたいております。

 ところでレポート課題にちょうどよいかもと思って買って読んだ「教室マルトリートメント」、いろんな意味でグサグサと刺さる内容だった。「マルトリートメント」は「不適切な関わり・養育」という意味で本来は子育てなど家庭単位に適用される概念であるが、本書は「教室内で行われる指導のうち、体罰やハラスメントのような違法行為として認識されたものではないけれども、日常的によく見かけがちで、子どもたちの心を知らず知らずのうちに傷つけているような『適切ではない指導』」(同書p1)を「教室マルトリートメント」として取り上げている。私はこれまで不登校であったり学校がしんどい子どもさんたち、その保護者の方々と多く出会ってきている中で、この「教室マルトリートメント」は(不登校・行き渋りの)背景要因として大きくあることを感じてきていたので、そのことが真正面から取り上げられたということに一縷の光を見る思いだった。しかも著者の川上康則さんは特別支援学校の教員をされておられるので、学校の「内側」からこのテーマが取り上げられているということになる。従来不登校や行き渋りの問題は「子どもの側」の問題として、子どもを変えようというアプローチばかりが為されてきたが、「学校」が自らその在り方を眼差し、その一部を「問題」や「課題」として見出していこうという機運が「内側」から出てきたということに、とても、とても心動かされたのだった。

 だからといって私は、個々の先生がたに「それはマルトリートメントです」と言って回りたいわけでは決してない。本書にも通底している問題意識だけれども、これはもはや個人の問題なんかじゃなくて、それ(マルトリートメント)を生む構造が問題なのだ、そこに手当てを施していこう、という共通認識を持つところから始めないといけないと思っている。だけどそういう流れを作っていくためには、「こうした振る舞いは、たとえ子どものためと思ってやっていたとしても、不適切である」ことを前提にしなければならないわけで、たとえば「怒鳴るなんて論外」と言っていかなければならない。

 そしてもちろん「怒鳴るなんて論外」という言葉は私自身にも向けられるものであり、どんな立場にいようが子どもと関わる大人は皆それぞれ当事者である。本書を読んで「グサグサと刺さる」のは、何しろ取り上げられている不適切な大人の振る舞いの多くが「これまで自分がやらかしてきてしまったこと」だったり「思わずやらかしてしまいそうなこと」だったりするからである。たとえば本書では子どもの発達を阻害しうるネガティブ要素をもった言葉を「毒語」として紹介されているが、そこから自分に思い当たる節のあるものを抜粋しただけでもこんなにある。

・質問形式で問い詰めるような毒語
「何回言われたら分かるの?」
「どうしてそういうことするの?」
・本当の意図を語らずに、裏を読ませるような毒語
「やる気がないんだったら、もうやらなくていいから」(本当は「やりなさい」)
・脅しで動かそうとするような毒語
「早くしないと、○○させないから」
「じゃあ、○○できなくなるけどいいんだね」
・虎の威を借るような毒語
「お母さんに言うよ」
・指導者側に責任がないことを強調するような毒語
「ダメって言ったよね」
「さっき約束したばかりだよ」

川上康則, 教室マルトリートメント, 東洋館出版, 2022, p35-p37より抜粋

 うわーん、もう本当にごめんなさい!!と平謝りしないといけない状況である。でもこれらも、しんどいが具体的な場面をちゃんと振り返って、「なぜそうすべきじゃなかったか」自分が自分に説明できるようにならないといけないと思っている。ただただNGだとダメ出しをされて「えっあれもこれもダメなの・・・」と落ち込んでいるだけでは全く意味がなく、「なぜそれらが子どもにとって毒になりうるのか」腹落ちしなければ、つい自分の口から毒語が飛び出しちゃうことを繰り返すのだと思う。まぁなんか、女性蔑視をする人がコンプラ的にNGな振る舞いを知っていたとしても、根っこにある女性蔑視そのものが変わらないから無自覚にセクハラを繰り返してしまう、ことと同根である。子どもに対する敬意を欠いたまま何をしても無駄、ではあるのだ。

 それにしても私がしてしまいがちなのは、「じゃあ、○○できなくなるけどいいんだね。」という脅しだったりする。たとえば子どもにとってちょっと苦手だったり、少し頑張って取り組めたらいい課題をするときに、「がんばったらお楽しみのこれを一緒にしようね」というご褒美を設定することがある。それでも課題に取り組めないときに、「お楽しみができないよ」という声かけをして子どもを動かそうとしてしまうのだけれども、そもそも「お楽しみをちらつかせても取り組めない課題」の設定そのものが適切なのかをまずは自分に問うべきだし、お楽しみが必要ないよう「課題に取り組むことそのものが楽しかったり、やってもいいなと思えること」であるようデザインするのが私の仕事であるのよな・・・それを棚に上げて、子どもの意欲や能力を責めるようなことを言ってしまう形になるのは「ヤベェ」振る舞いなのだけれども、そのヤバさは自分を含めて社会的にもあまり認識されていないようにも思う。うう、気をつけます・・・

 ・・・という自分の反省も必要だけど、やっぱりそれと同時に「(子どもに不適切な言葉をかけてまで)子どもを動かそうとしないといけない状況」そのものを問うていけるといいなと思う。大体そういった状況において大人は孤立していることが多く、他者からの「ちゃんとさせろ」という圧や期待を一身に引き受けていたり、そもそも余裕のない状態に置かれていたりする。理想を語ってしまえば、子どもや子どもに関わる大人たちが急かされずにいられて、みんなで子どもに対する責任を分かち持つことができたらいいと思う。自分ひとりで何とかできないんだったら周囲にヘルプを求めたらいいし、むしろ私たちが不得手でできないのは自分の限界を知って「助けて」と言うことの方なんじゃないだろうか。そして周囲の人々は当事者に「ちゃんとやれ」という圧をかけるかわりに、当事者の「助けて」に応えようとして欲しいと思う。もちろん私自身は子どもに関わる「当事者」であることもあるし、「周囲の人々」というシチュエーションに置かれる場合もあるわけなので、後者の立場で「困ってることない?いつでも助けるよ」と言えるようでありたいと思って書いている。

 最近、混んでいるスーパーのセルフレジでは子どもに会計をさせるべきではないのではないかという議論がSNSで巻き起こっていた。レジに並んでいる人にも様々な事情を抱えている人がいるのだから配慮すべき(混んでいない時間帯にスーパーへ行けばいいなど)という意見、そもそも子どもはコントロールできないという意見・・・どれもそうだなと思うし、正解はない。でもやっぱり、「混んでいるときは子どもにレジをさせないで」という眼差しは、たとえどれほどマイルドに表現されていたとしても、子どもを育てる人たちに「人に迷惑をかけるな」と圧をかけてしまうように思う。そしてその眼差しと圧は、子育てをする人たちを容易に孤立させ、より小さい弱い立場である子どもたちに「ちゃんとしろ」と迫ってしまうことになる(マルトリートメント)。本来子育ては保護者だけではなく社会全体で営まれているものなのに、保護者にのみ責任を負わされているという構造が、こうした事態を引き起こしているのだと思う。

 こう言っているからといって、何も急いでいる人たちに向かって「子どものことなんだから、寛容になれ」と言いたいのでは決してない。みんなそれぞれ、事情がある。その事情は、時と場合によって変わりもする。私だって、どうしようもない事情で急ぎ焦っていることもある。だからもしそういう場面に出くわしたら、「混んでいるときは子どもにセルフレジをさせるべきではないのではないか」という正論(らしきもの)をぶちかますのではなくて、「私は」今日とても急いでいるのでごめんやけどお母さんにやってもらってもいいかな?と「私のこと」としてお願いできたらいいんじゃないかと思う。「人に迷惑かけるな」と言う人の「人」は、実際には「この俺様」だったりするのに、「人」と言い換えることで「俺だけじゃないみんな」を勝手に代表してしまうから「世間の圧」みたいなものになってしまうのではないだろうか。「混んでいるときは子どもにセルフレジをさせるべきじゃない」という正論(らしきもの)も、「私の」事情を語らずに「正しさ」を纏って迫ってきているという点で、「世間の圧」と化していると言える。

 そしてもっと言ってしまえば、スーパーのレジが小さい人・弱い人(ここではセルフレジにもたついてしまうすべての人たち。高齢者にも多い)を包摂した仕組みやデザインになっていないということについても、みんなで声をあげていけたらいいなと思う。報道では「ゆっくりレジ」というものを導入しているスーパーが紹介されていたが、店内に「時間をかけてもいいレジ」を設置するだけで、小さい人・弱い人が「世間の圧」にさらされずに買い物をすることができるし、よいデザインだと思う。そうした柔軟な取り組みについて「いいね!」と言っていくだけでも、社会は変わっていくんじゃないかと期待したい。

 と、話がだいぶそれてしまったけれども、「人に迷惑をかけるな」という圧はマルトリートメントの素地なんだよねというお話でした。小さい人、弱い人にしわ寄せがいくような圧は、それぞれが少しずつ自覚して気を付けることで減らしていけるといいな。

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