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評価って難しい

 しれーっと2週間も更新をサボりましたです、すみません・・・

  オミクロン株がものすごい猛威をふるっている。子どもたちの間での感染も広がっているが、私が暮らす自治体では特に何の対策も講じられず、このまま(高校)受験シーズンに突入していきそうである。こんな惨状になっていてもGIGAスクールなんて夢の国の話?状態の自治体もあれば(うちね)、メディアでは「うまく活用していている」自治体の事例も取り上げられていて、余計に気持ちがへこむ。これは個々の先生方の問題なんかじゃ決してなく、ていうかもはや個々の学校の問題ですらなく、教育行政全体の無策に国民みんなが苦しんでいる、という状態であると言っていいと思う。つらい・・・

  こんなパンデミックの中で共通テストを受けないといけない高校生も気の毒だなぁと思っていたら、SNS上で数学のテストが難しかった、平均点が38点だったというようなことが話題になっていた。会話で進んでいく問題や、問題の文章がやたらと多いという点が、数学の力をはかる上で適切なのかということも問われていたし、試験時間に対して問題数が多いということも指摘されていた。

  これ、まんま中学の定期テストの奇怪な傾向とかぶる!

  ムスメさまの定期テストを解くのが隠れた趣味なので、時間を測って全力で解くんだけれども、すみません。数学に関しては、時間内に全問題を解けたためしがない。50分で大問17題とか、考えるよりも反射的に解けないと最後までたどり着けないと思う。しかも場面設定が謎にされた文章題もあって、読まされる文章が本当に多い。これは数学だけではなくほかの教科にも全て共通していて、妙に不自然な場面設定がされている中で会話形式で話が進み、その中から必要な情報をとってこないといけないという、めちゃくちゃ負荷の高いテストになっている。全てのテストにおいて、処理能力とワーキングメモリーと読解力を要求されるという、発達特性をもつ子どもたちに圧倒的に不利な形にテストが変貌をとげていて、「なんでこんなことに!?」と思っていたのだけれども、共通テストも同じなのだね・・・そして平均点が38点て、あまりにも受験生をうちのめしすぎて酷くありませんか。中学校の定期テストの平均点も低くて(学校に)苦言を呈したことがあるが、こんなダメージを受験生に与える必要ってどこにあるんだろうと辛い気持ちになる。

  そして今回の共通テストでは、悲しいニュースも話題になっていた。受験生が試験中にテストを撮影し、解答を外部の人から得ていたというニュース。そこまで追い詰められてしまった受験生の心中を思って胸が痛くなったのだが、なぜそこまで?という気持ちが拭えなくてニュースを追っていたら、大学受験をめぐる過酷な現状を知ることになった。私も全然知らなかったのだけれども、私立の場合一般入試で入学する学生の割合は年々減ってきていて、上位校でもおよそ半数、そこに続く大学にいたっては4割を切るところもあり、それ以外は附属からの進学や推薦で進学していくのだという。そうなると一般入試の枠(人数)が減るのだから競争は苛烈になるだろうし、それを避けようとなったら早い段階から対策をとる(附属に入る、指定校推薦を得やすい上位の高校に行く)必要が出てきて、「逆算しながらの進路決定」色がどんどん濃くなってしまうわけである。「大学なんて実力勝負で突破できるんだから、高校なんてどこ行ってたっていいでしょ。」とお気楽に思っていたが、その実力勝負の場が不当に熾烈な場になっていることとか、大学側が(おそらく少子化の影響で)推薦枠を増やしている(悪意をもって表現したら、ばらまいている)現状を考えたら、そうも言っていられない、というのも分かる。もちろん総合型選抜(旧AO入試)など多様な入試形態は用意されているし、「学校の中で頑張って内申をとっていく」推薦とは異なる闘い方を選ぶこともできるので、学校に隷属しない・縛られない選択は可能である。でも、今目の前のことを精いっぱい楽しんで、「ここに行きたい!」「やろう!」と思ったときに頑張る生き方が応援されずに損をして、将来をみこんで賢く対策していく生き方が推奨されて得をするのは、やっぱり不平等だなと思うし、悲しい気持ちになる。それでも果敢にチャレンジした先で、処理速度だとかワーキングメモリーとか個人の努力で変えがたい力が高く要求され、あらゆることに言語を介した理解を求められるというのも、不平等極まりないよなぁと思う。まぁ個人の能力をはかる、ということの限界でもあるので、何が平等なのかは分からないが。今回の不正を受けてSNSで、「某国立大学でドイツ語のテストの際に持ち込み可としたら、ドイツ人を連れてきた学生がいた」というエピソードが話題になっていたが、社会の中では「個人の能力」ってその人の中に閉じておらず、「使えるものを使う」まで含めて拡張したものとして捉えられているよな、と思う。自分ができなければできる人をチームに招いたらいいのだし、むしろコスト的に自分がどこまで担うのがいいのか判断し、適切な人に適切な形でオファーを出す力のほうが求められたりもする。そういう時代の「個人内能力」をはかる評価って、どこまで妥当性があるのかなという気がしないでもないけれど、「それだったらコミュ強しか評価されないじゃないか!」という声も聞こえてきそうだし実際そうなることを望んでいるわけでもないので、「評価」ってほんとに難しいものだなと思う。

  ところで今ムスメさまは、毎日勉強に励んでいる。といっても入試のために、ではなくて、わが家独自の「中学卒業認定試験」のためである。高校入試は面接だけなので教科学習は必要ないのだけれども、わが家では高校へ進学する(高校進学を経済的に援助する)条件に「中学卒業程度の学力を有する」ことを(ムスメ氏がホームスクールを選んだ時から)課しており、ムスメさまはその条件をクリアするために今とても頑張っている。中学卒業程度の学力をどうはかるかっていうのも、これまたすごく難しい問題なんだけれども、「公立高校の入試(今年度のもの)」を時間制限を設けずに心ゆくまで解いてもらうことにした。「時間制限なし」にしているのには理由がもちろんあって、試験対策をして「受験」に適応することが目的なのではなく、あくまでも学習内容を理解することが目的なので、ゆっくり自分のペースで問題を解ければそれでよしと考えているからである。もともと処理速度は個人差があるものだし、もしそこに苦手さを抱えていたらそれを補おうと反復のトレーニングが必要になってしまう。理解しながら学習を進めていくことよりも、そちらのほうに時間がさかれてしまうような事態は(今のところ)避けたいと思った。一番大事なことは、自分に合ったペースで、自分なりのやり方で、「わかった!」「できた!」経験を積み上げること、そしてその経験と自信を土台に新しい学びへ向かっていけることだと思っているので、「時間無制限」はそれを志向したデザインである。人より速く、正確に。自分が選んだ、自分の求めるものにそれらが必要になった時には、自分でトレーニングを積めばいい。きっともうその頃には、自分に必要な学びを自分でデザインできるようになっているだろう。でも今(義務教育期間)は、学びの入り口で、自分の学び方を学ぶ時期。人と競うことは、必ずしも必要ない。本人が望むなら、そうしたらいいと思うけれど。実際、私自身は競争の中で勉強をすることが嫌いじゃなかった。でもそれは、そういう方法、在り方しか知らなかったからであって、もしじっくり楽しく取り組む経験ができていたら、そちらを選んだかもしれない。分からないけれどもね。

  いずれにせよ、選べたうえで、色々試せるといいな。だって、やってみないと分からないものね、自分に合っているかどうかなんて。

  でもそんな学びの多様性は、その先~大学受験やら、就職やら社会~が変わらなければ保障されていかない。なぜならそれぞれの学び方とペースで歩んでいくことを希望しても、その先で「そんなもんは通用しませんよ」っていう価値観で制度が維持されていたら、実質選べないのと一緒だからである。何かを諦める覚悟をしない限り選べないなんて、選べるうちには入らない。ここでもまた、子どもたちの多様性とそれぞれの幸福について考えると、「まずは社会が変わらなくちゃね」ということにぶち当たってしまう。とほほ・・・

  と愚痴っぽくなってきましたが。

  諦めずに、できることを、できるようにやっていこう。楽しみながら!

追記:ちなみに写真は「ゾムツール」です。頭の中だけで立体の図形を思い浮かべたり動かしたりする能力を著しく欠く私、そういう力(メンタルローテーション)だってトレーニングしたら飛躍的に向上すると思えないし、そこを補うツールは「持ち込み可」にして欲しいもんだよね、と思う。テスト中にゾムツール広げるとか、今の教育ではありえないけど。

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