見出し画像

とにかくチョイスを!

「教育にチョイスを。」

 広島県教育委員会の教育長を務め、公教育改革をどんどこ進めておられる平川理恵さんが、今朝のあさイチ(NHKテレビ番組)で力強く仰っていた。きっとその瞬間、学校に行っていないor学校がしんどい全国の子どもたち&その親御さんたちが、一斉に「まじそれな!」と首をぶんぶん振っていたに違いないと思う。チョイスが欲しい、なによりも。

 それはなにも番組で紹介されていた「イエナプランを実践する学校」というビッグなチョイスを用意して欲しいってことじゃなくて(いや、ぜひ作ってほしいけど、京都市にも)、たとえば教室がしんどい子どもさんが安心して過ごせる別室をきちんと用意して欲しいとかいう最低限のチョイスのことを言っている。そんなの子どもの学習権を保障する当たり前の働きなのに、許可するとかしないとか上から目線の学校なんてざらである。それも別室を用意「できない」のは、マンパワー不足とか場所がないとか「やる気がない」とかいう大人の事情からだったりするのに、まるで子ども自身に「問題」や「課題」があるかのように、「甘やかしたらよくない」とか「我慢する力も必要だ」とかって責任転嫁してくることもあるからほんとに油断できない。モラハラパターンそのものだよね。

 そうなのだ。

 私なぜかめちゃくちゃ怒っているけど、怒っているのは「(そうできない)大人の事情」に対してじゃなくて、そこを隠蔽して(認めないで)相手のせいにするっていうのがどうにも許せないのだ。先生たちも忙しくて大変なのも分かっているし、学校の中に場所を確保するのも難しい場合だってあるだろうし、やる気だってそりゃあったりなかったりするだろう。ニンゲンだもの、生ものだもの、「今ちょっとやる元気がなくて・・・」ってことがあったって仕方ない。(私だってある。)そう言ってもらえれば、「元気のある人にかわってもらえますか?先生、お大事に・・・また元気出たらよろしく。」って言えるじゃないか。

 だから「こちらは子どもの学ぶ環境を保障する義務を負うている。しかし○○の事情でどうしても今そうすることができない。子どもの学ぶ環境を保障するために、ほかにできることはないか。」と、それこそチョイスを提案してくれたら納得できる。でも「(本当はできないのに)いやぁ別室用意するなんて簡単ですよ。でもそれで解決しますか?子どもさん甘やかしていいことないですよ。」なんて言われたら、「それ、ズルいっすよね?」となる。ズルい。この言葉は嫌いで封印しているんだけど、そんな私の口からも飛び出てくる。そうして、自分自身や子どもがそのことに直面しているわけじゃなくても、見聞きしているだけでとても傷つく。

 なんかね。

 最近機会があって色々と考えているうちに気づいた、というか直面させられたんだけれども、私がどんな制度の中でもうまくやってこれなかったことの根っこには、これと(構造的に)全く同じ傷つきがある。教育もそうだけど、医療もまたパターナリズムの強い世界であり、無自覚に「できないこと」の理由や原因を立場の弱い人に押しつけてしまうことがある。本当は立場の弱いその人にとって安心できる居心地のいい環境を整えないといけないのは職業としてお給料をもらっている側なのに、それができない・そうするつもりがないことの理由を患者さんの側に見出してしまう(患者自身の問題だ、と言ったり)というようなことは、我が身を振り返ってもしてしまいがちだった。でも現象学的研究や、発達障害というテーマとのご縁などもあって、心の底から「人は多様な身体を生きていて、その身体でもって世界と関わり合っている。ある環境がその人にとって居心地のいい(ケアに満ちた・回復に向かわせる)場所かどうかは、ひとえに相互の(身体の志向の)相性。」と思うようになって、自分が今までなしてきた無自覚な暴力に嫌気がさした。全ての人にとって「いい」場所なんてない。ある人にとってはよくても、また違う人にとってはよくないなんて、多様な人間の集まりでは当たり前だ。単に「相性が悪いよね」っていうだけのこともあるのに、どれだけの人たちを失意のうちに立ち去らせただろうと考えたら、なんかもう「無理」ってなってしまったのだ・・・本当は、「私がここで大切にしているのはこういうことです。でもそうじゃない場所もある。それはいい・悪いではなくて、単に違うというだけで、合う・合わないの問題。ここじゃない選択肢もあります。」と言うことができたらよかった。多様な場所があって自ら選択することができれば、「ここに合わせられないのは、あなた自身の問題だ」なんて言われる筋合いは、誰にもないはずだ。ここでもまた、「とにかくチョイスを!」と叫ばずにいられない。

 それはだって、全ての人にとって他人事なんかじゃないはずなのだ。というか、「とにかくチョイスを!」なんて叫んでいる私がそもそも、現状制度の中に居場所がなくて立ち去らざるを得なかった。いつだって、どんな人だって、自分が排除される側になり得る。その時に、「それはあなた自身の問題なり欠陥だ」と暗に言われて拒絶されるより、「ここはこういう成り立ちをしているけれど、そうではないいろんな場所があるよ。合う場所があるといいね。一緒に考えよう。」って送り出してもらいたい。私なら、そうしてもらいたいと心から思う。

 もうこういう構造の再生産で、傷ついたり、傷つけられたりしたくない。これから子どもたちが生きる社会は、フラットで対話的であって欲しい。と言いつつ、階層的で軍隊的な文化が居心地のいい身体性の方もいらっしゃるだろうから、何度でも「とにかくチョイスを!」

細々noteですが、毎週の更新を楽しみにしているよ!と思ってくださる方はサポートして頂けると嬉しいです。頂いたサポートは、梟文庫のハンドメイドサークル「FancyCaravan」の活動費(マルシェの出店料等)にあてさせて頂きます。