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内申制度って、だいじょうぶなん?

 内申っていう制度は、あらゆる意味で大丈夫なんだろうか?

 内申をめぐってあちこちから悲痛な声が届くのだけれども、どう好意的に解釈してもフェアな制度であるとは思えない。もちろん多くの先生がたが慎重に、公平に評価して下さっているだろうことを疑っているわけではなく、「人間だもの」の部分、恣意的な判断が入り込む余地がゼロではない、という制度設計を維持し続けているということに「だいじょうぶ?」と思うのである。私が先生という立場で子どもたちを評価しなくちゃいけなくなったら、そんなグレーゾーンが広がる制度の中では、子どもや保護者からいつ何時「先生の主観や好き嫌いで評価している!」と糾弾されかねないと、常に警戒態勢をとることになるんじゃなかなと思う。だからなるべく客観的な指標を求めるわけだけど、そうすると点数化しやすい提出物や課題が評価の対象になり、これがまた「学習方法の固定」という観点から様々な弊害が指摘されている。決められた方法での学習は、それが合う子どもたちには合理的だけれども、一部の合わない子どもたちにとっては学習効果が得られないばかりか、苦行と化してしまいかねない。

 そもそもそれぞれの先生たちがオリジナルで作問している定期テストは難易度もバラバラだろうし、子ども本人にとっての到達度をみるための評価だったらともかく、それが「受験」と結びついて進路にそのまま影響してしまうって、どう考えてもおかしい。うちの学校の、この先生の授業とテストでは「3」です、っていうだけで、他の学校とも共通した「3」なんかではない。せめて定期テストを共通にしたらどうかと思うが(なんでそうならないんだろうと不思議でならない。指導要領っていうものがあって、学ぶ内容は同じなんだから。各先生の負担も大きいだろうし)、まぁだったら内申なんてなくして、当日一発勝負が一番公平なんじゃない?と思ったりもする。一部学業以外にも頑張った子どもたちのために、総合選抜とか推薦枠みたいなものを用意しておけば、「学びは学力だけじゃない」という批判にも耐えうるかと。

 とにかく「内申(=進路)」のために、あらゆることをオールマイティに、3年間ずっと頑張り続けないといけない、一度躓いたり失敗したら挽回もしにくい、その制度で苦しまないといけない子どもたちがいることは、もっと知られていいと思う。そして我が子のように学校へ行っていないと、内申制度から自由でいられる一方で、内申がとれないので(学力に応じた)「公立全日制」という選択肢がほぼなくなることも。私学へ進学せざるをえないという点において、「自由をお金で買っている」という状況だといっても差支えないと思う。もうすでに(公立中学の)内申制度の理不尽を回避するために中学受験する子どもたちが増えていたり、(内申を人質にとられて)「やりたくないことをやらない」ための選択として通信制高校や高卒認定を目指す子どもたちもいるわけで、お金を払って逃げられる人から逃げ始めているという現象は今後も進んでいくと思われる。なんかもう誤解を恐れずに言えば、内申と人権がバーター(それが嫌なら金払え)になってしまっていないか・・・?というのが、ちょっと令和の時代にアリエナイ・・・でも学校が自ら対応を変える兆しは見えないので、子どもたちが逃げていくという形で瓦解していくのだろうな・・・

 大体「成績をつける」「評価する」ということが、一方的なジャッジメントであっていいわけがなく、なんのためにあるのかといったら(教員の側からすると)「子どもたちの理解度を把握し、自分の実践に反映させる」ためなのでは?「ここが理解しにくかったみたいだから、子どもに理解してもらうためにはどんな工夫がいるか?」と考えるためにあるのであって、子どもたちを「できてる」「できてない」とジャッジする機会ではないのだ。子どもたちにしたって同じで、どこができてどこができていないかを確認し、自分の学習を今後どう進めていったらいいか考える機会として利用するのが「評価」である。それが入試と紐づいてしまっているから、本来の意味合いがどこかに吹き飛んでいき、「頑張ってとりにいくもの」になってしまっている。

 何でこんなことに?と思うのですよ。どう考えても今の時代マズイ制度なのに維持され続けているのは、国が主導しているのか?と思ったのだけれども、子どもたちの学習評価に関して文部科学省は「小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校等における児童生徒の学習評価及び指導要録の改善等について」という通知を出していて、そこにはっきりと評価の基本的な考え方が書かれていた。

【1】 児童生徒の学習改善につながるものにしていくこと
【2】 教師の指導改善につながるものにしていくこと
【3】 これまで慣行として行われてきたことでも,必要性・妥当性が認められないものは見直していくこと

平成31年3月29日文部科学省

 すごいまっとう!!!
まっとうすぎて、逆にびっくり!

 そしてこの基本的な考え方に基づいて、高等学校入学者選抜の在り方の改善も下記のように求めている。

「1.学習評価についての基本的な考え方」に示すとおり,学習評価は,学習や指導の改善を目的として行われているものであり,入学者選抜に用いることを一義的な目的として行われるものではないこと。したがって,学習評価の結果を入学者選抜に用いる際には,このような学習評価の特性を踏まえつつ適切に行うことが重要であること。

同上

上記から、具体的には、

調査書の利用に当たっては,そのねらいを明らかにし,学力検査の成績との比重や,学年ごとの学習評価の重み付け等について検討すること。例えば都道府県教育委員会等において,所管の高等学校に一律の比重で調査書の利用を義務付けているような場合には,各高等学校の入学者選抜の方針に基づいた適切な調査書の利用となるよう改善を図ること。

同上

 めっちゃ改善が要求されてるじゃーん。

 それなのに変わっていかないのは、やっぱり評価は子どもをジャッジするためのものであり、まさか自分(教員)のためにするなんて思えないからなんじゃないだろうか。パラダイムシフトが必要だもんね・・・

 でも子どもたちを一方的にジャッジだけして、個々の子どもたちの学習サポートを行わないなんて本来許されない。だって「できない」と評価されて、「できる」ようにサポートもしてもらえずに「できない」ままに捨て置かれてしまったら、子どもたちは学習を諦めたり嫌いになったりしてしまうだろうから。学びの場で、そんなことがあっていいはずがない。

 本人の同意を得てお話するが、ムスメさまは中学入学当初、英語の定期テストが30点台だった。一緒に勉強してみるとbとdの区別がついていなかったり、初見の英単語を読むことが全くできないということが分かった。英語の音韻処理に難しさがあるのではと、その力を補う方法として推奨されているフォニックス学習を取り入れている英語教室を探し、週に1回のんびりペースで通い始めた。フォニックスをベースに歌や楽しい遊びを取り入れた学習が本人にフィットしたので続けられ、文法の基礎的な部分は私がぼちぼちと教えて3年。ようやく定期テストでおよそ9割の点数が取れるまでになった。今でもbとdは混同するし、初見の英単語を読むことは苦手なので、音韻処理の能力自体が改善したわけではないけれども、そこを補う力を育んでこれたのが大きかったと思う。そして何より、「できない」からと自信を失って英語を嫌いにならなかった、学ぶことを諦めずに楽しみながら続けてこれたことが、何にも代えがたい。

 これがもし学校で、「できない」とだけ評価されて、「どうしたらできるようになるか」「どんな方法が合っているのか」を教えてもらえずに放っておかれたらどうなっていただろう、と思う。きっと自信もやる気もくじかれて、「英語なんて大嫌い!」なんて言っていたに違いない。そしていったんそうなってしまえば、学習進度のリカバリーより、自信ややる気を回復させることのほうがはるかに時間がかかるだろう。だから私はいつでも何度でも、「ジャッジしてたたきのめさないで!」と言うのだ。評価をするのであれば、「できない」ところをフォローするところまで確実にして欲しい。子どもたちを「できない」というポジションに追いやるのではなく、「できる」に向かう道筋を示して欲しいのだ。

 2年前にムスメさまが「おうちで勉強する」と宣言した、その背景にはおそらく「このまま座って授業を聞いて、自分に合わない方法で勉強し続けても、できるようにならないのではないか」という不安もあったのだろうな、と思う。そしてそのことを思うと、ぎゅっと胸がしめつけられるような思いがする。でも彼女は自分で勉強すると決め、自分に合った方法を模索することで、「できないんじゃない、できるように教えられてないだけなんだ」ということを自ら証明してみせた。それは本当にすごいことだと思う。でね、ここもミソだけど、彼女は別に「血のにじむような努力をして」たわけではない(とか言ったら怒られるかな)。多分ほかの受験生に比べたら、コツコツだけどのんびりペースの時間しか英語学習に割いていない。学習方法が自分にフィットすれば、学習のコスパがよくなるのだ。無駄にひたすらスペルを書いて覚えたりさせられずに済み、「自分にあうやり方」に全振りできるから。

 「評価と指導の一体化」と文部科学省も言っているのだし、ほんとにそろそろ入試に紐づけた一方的な評価の改善をお願いしますよ・・・少子化でそもそも子どもの数が少ないんだから、「できないのは自分の能力・努力不足」とばかりに評価して雑にたたきつぶす余裕なんてどこにもない。大事に、丁寧に、文科省のいう「個別最適な」学びを提供して、みんなに育ってもらわないと困るのは、何を隠そうたたきつぶす側。そういう危機感のなさにも、「だいじょうぶなん?」と思わずにいられないのだよね・・・

おまけ:写真は、すきまやで作ったデコ肉まんだよー。今年はマイクラにお世話になりました!ありがとうマイクラ・・・


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