何色だっていいじゃないか~黒染め強要に思う~

頭髪が生まれつき茶色いのに、学校から黒く染めるよう強要され精神的苦痛を受けたとして、大阪府羽曳野市の府立懐風館(かいふうかん)高校3年の女子生徒(18)が約220万円の損害賠償を府に求める訴えを大阪地裁に起こした。
毎日新聞10月27日(※1)

 「髪の毛の色なんて、何色だっていいじゃないか!」
 このニュースを聞いたとき、夫婦そろって同じことを吠えた。そして小学生のムスメに「ピンクにしても、紫にしてもいいんだからね。」と必死で伝えるも、彼女は「えーそんな色いやだ。」とかつまんないことを言う。まぁかーさんもそうは言ってはいるが、髪の毛の色をピンクや紫にしたいという欲求は今のところない。でもものすごく大事なのは、私が望めばそうできる、っていう自由なのだ。

 このニュースに先立ち、都立高校の一部で「地毛証明」の提出を生徒に求めているという記事もtwitterで流れてきた。地毛が黒髪以外の生徒は「生まれつきこの色で、染めていません」という証明を課されるのだという。なんということだろう。一体いつの時代の話だ?と目の前が暗くなる。

 そもそも、何で髪の毛を染めちゃいけないんですか?純粋に、その理由が知りたい。

 「校則だから。」
 なんて答えは、全く答えになっていません。だって「校則」は、太古の昔からこの先未来永劫不変の「神の掟」なんかではないし、状況にそぐわず不合理であるなら変えるべきものだから。つまり問うべきは、「なんで髪の毛を染めちゃいけないって校則で定めないといけないんですか?」という点である。もっと言えば、生まれつき茶色い髪の毛であることを享受する自由も、「この色が好きだ!」と好きな色に染める自由も、なぜ「校則」で制限されなければならないのかが論点なのである。とても大事な個人の「自由」(と尊厳)を制限されるからには、きちんとその理路を説明してほしいと思う。

 でももしかしたら、「校則だから」以上のことって出てこないのかもしれない。

 「頭髪は黒って校則で決まっちゃってるんだから、みんな渋々それに従っているんですよ。ルールだから。それなのに地毛が茶色い人は茶色いままでいいなんて、ずるいじゃないですか。不公平ですよね。なんであの子だけ茶色でいいんですか?ってほかの生徒に聞かれたら、どうするんです?だから地毛が茶色い人もね、黒に染めてくださいよ。」

 現場の先生がたが何を思い、何を考えておられるのか全く分からないので推論でしかないが、たぶん上記の理屈に近いものが共有されているんじゃないだろうか。でもそんなに公平性を求めるんだったら、いっそのこと校則を「頭髪は何色でもいい」にしちゃえばいいんではなかろうかと思う。変えたくない人は変えないでいいし、変えたい人は変えたらいい。それが一番公平なのではないだろうか。自由が最も公平ですよね、どう考えても。

 だけど私はこの「ルールそのものを問う」思考が、実は集団において最も忌避されるということを知っている。

 「頭髪は黒」という意味不明な校則に限らず、あちこちの組織にこうした不合理なルールや仕組みが散見されるのだが、それを指摘するとものすごい抵抗にあうか、スルーされるかのいずれであることが多い。PTAなんかはその最たるもので、一部の役員に過重な負担がかかっている現状を何とかしようと「可能な限りの細かい分担制(係活動もしくはプロジェクト制)」を提案したが、聞き入れてはもらえなかった。仕事の押し付け合いになる時点で制度がうまくまわっていない証拠なのだし、子どもたちのためにみんなが気持ちよく仕事を引き受けられるような仕組みに変えようよ、というだけの話のはずだが、ここで足を引っ張るのは意外にも「ズルい!」マインドだ。私たちは大変な思いをしたのに、今後楽になるのはズルい。こっちの仕事は変わらず、あっちの仕事ばっかり楽になってズルい。こうなってくると「ズルい」こそ呪いだと思わずにいられない。「私がこれだけ我慢してきたんだから、あなたも我慢しなさいよ」って怖すぎやしませんか?

 ていうか。
 そもそも「私」も「あなた」も我慢なんてしなくていい。
 「それは嫌だ」「そんなことは出来ない」って言い合えるような文化にしていきたくないですか?
 そうじゃないから、やりたくないことを渋々やり、やっていない人を「ずるい」と呪わなくちゃいけなくなるんだもの。

 我慢が必要な時点で制度がどこかおかしいのだし、そこにこそ手を加えたらいい。みんなが「やりたくないな」と思うのには理由があるのだし、なんでそうなっているんだろう?と考えるところから始める。少しでも愉快に、楽しく引き受けていけるような形に変えていきたいじゃないですか。そのためにはまず、「嫌だけどしょうがないよね。決まってることだし。」ではなくって、「これって嫌じゃない?無理じゃない?」と声をあげなくては。そうやって変えていくことは「後続を楽にする」ことでもあるし、それを自らの仕事として引き受けたら、やがてまた自分にまわってくる仕事も楽になっているはずである。目先の(見た目の)「公平性」に引っ張られて、大局的にみてうまくまわっていくことに寄与できないのなら、いつまでたっても我慢大会と呪いの悪循環である。あぁ不合理!(※2)

 「生まれ持った茶色い髪のままでいたい。黒く染めたくない。」
 その気持ちに、もっともな理由や正当性なんか要らない。あなたが、わたしがそう望むなら、それは周囲の人間によって尊重されなければならないと思う。それよりも組織のルールが上位に置かれていること自体が「もしかしておかしいのでは?」と問うていける、そういう社会を作っていくのは私たち一人ひとりの振る舞いだということも胸にとめておきたい。「なんなのあの格好は?だらしない」なんて、つい人の見た目のことに口出ししたくなる気持ちは、私の中にいつだってある。よくも悪くも、ヒトはヒトの見た目が気になってしょうがない生き物なんだと思う。でもそこはぐっとこらえて、管理や規制に走らず尊重する態度を示す。それだって我慢じゃないかと言われそうだが、こういうのは「やせ我慢」っていうんじゃないかな。やりたくないことをやらされてする我慢じゃなくって、「今の自分」と「こうあれたらいいなと願うような自分」との間で葛藤する我慢。そんなやせ我慢を続けているうちに、「ヒトがどんな見た目でも、つくづくどーでもよくない?」というのが深く内面化された「こうあれたらいいなと願う自分」になってました!ってなるといいんだけど。

※1毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171027/k00/00e/040/327000c

※2
Twitter上で不合理な校則をハッシュタグで集める動きがあったので、一部紹介する。

#こんな校則いらない (Buzzfeed)
https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/konna-kousoku-iranai?utm_term=.sk5lMpVRpE#.th7W97P47n

#ブラック校則 (荻上チキさんTogetter)
https://togetter.com/li/1165919

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