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猫の肛門

  いつだったか猫の肛門がテレビ画面いっぱいに映し出されていた。私は食事中でなぜ猫の肛門を見なければいけないんだとそれ以来バラエティー番組から遠ざかった。
  番組では猫好きの芸能人が猫の魅力を語っていた。猫の肛門はハート型でそれがかわいいと紹介され、偏愛ぶりが面白おかしく編集されていた。私は猫が嫌いじゃないし見れば愛らしいと感じる。それでも肛門を見たいと思ったことはない。
  テレビなんだから自分が望まない情報が目に飛び込んできたって文句は言えないのだけれど、肛門という超プライベート部位を画面いっぱいに見せられるという不意打ちをくらっていささか腹を立てていた。

  ずいぶんとバラエティー番組から遠ざかり猫の肛門事件など忘れかけていた頃、家族に自宅の窓辺に吊ったドライフラワーがゴミにしか見えないといわれた。いつからゴミだと思っていたのだろう、毎日ゴミを見ながら生活させていたのかと思うと申し訳ない気持ちもしつつ、気に入っていたドライフラワーを捨てなければいけない悲しみと価値観の違いに孤独を感じながらぼんやりと、ああ、猫の肛門だなと思った。「猫の肛門」は私にとって価値観を押し付けないように自制する呪文となっている。私にとって肛門はどう転んだって肛門だけれど、猫好きの人(全員ではないと思うが)からすればそれはチャームポイントなのだ。

  私にも好きなものがたくさんあるけれど、それらは必ずしも万人に受け入れられるものではなく、ときに配慮が必要だ。デニムがいかに好きでも結婚式に着て行くものではないし、文房具が好きだからといって食卓に出しておくものでもない。(デニムは元々工場で着る作業着だった歴史から礼服に該当しない。文房具は鉛筆の黒鉛や消しゴムのカスなどのゴミが食事と混ざることを嫌う人もいる。ちなみに私は文房具を愛でながら食事をすることが苦ではない。)

  好みがあるのは大いに結構。それでも、首を傾げながら多くの立場を想像するべきなのだと思う。個性的と言われるか、非常識と言われるかは本人のキャラクターによるところもあるだろうけれど、少なくとも私に個性的と言わせるカリスマ性やオーラと言われるものはないので凡人としては相手の好みや立場を考え押しつけがましくない程度に自分の好みを公開することにしている。

  しかし、偏愛というものは面白く意外なチャームポイントを知ることができるわけで刺激的だ。偏愛を聞くために人に会うこともしばしばある。偏愛を拒絶することなく聞きながら、一方で自分が好きなものの魅力をソフトに伝えられる術はないだろうか。
  いや、でも、ソフトではなかったけれど、もしかすると半年後、私のスマートフォンの待ち受け画面は猫の肛門になっているかもしれない。

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