「親を切る」と書いて親切
人間が優しくしたり親切にしたりするのは、生存にそのほうが有利だから残った本能です。異性からのモテ度の調査でも一位に親切さがくるのは、能力の一部として評価されるからであり、自分のためや、子孫のためにも親切さは必要です。
世の中には偽善と呼ばれるものがあるようですが、善は人の本能に根付いているので、基本的に人間は弱い善のことを偽善と呼びます。強い弱いという表現は、その人の能力や思慮深さから考えられます。
ただ、強い善が必ず正しいというわけでもないわけです。考えすぎて間違えたり、迷うこともあります。
僕は統合失調症であり、この病気について詳しい人は必ず強い善で「僕の病気は治らないから人生を諦めなさい」と伝えてきました。
でも、今の僕があり、幸せな気分でいられているきっかけは、兄の弱い善です。兄は僕と似て、勉強は数学だけ得意であとは駄目というような人です。勉強の仕方が分からないそうです。社会は知らないし、統合失調症にも詳しくない兄ですから、当然弱い善と分類されます。
そんな兄が死ぬなと言ったのは、僕が上手く働けなくて泣いていて、兄に自殺未遂を繰り返していると告げたときです。兄は「死ぬな」と力強く言ったあとで、兄弟なのに珍しく適切な言葉を探して、結局「死ぬな」と言っただけでした。
結局のところ、僕の心を動かしたのは弱い善だったとしても、「僕を必要としている人がいる」という事実があったからであり、そこには知識もお金もないのです。もちろんどちらもあった方が越したことはないですが、なかったとしても命の恩人と呼ぶにふさわしいのです。
「死ぬな」という言葉は、同時に「お前の考えは間違っている」と伝える言葉でもあります。たとえば心理カウンセラーは使えない言葉なのかもしれません。だとしたら「親を切る」ほどに意味深い善はできないでしょう。親切という言葉は親を切るという意味ではないと知ってますが、可能性はあります。
ときどき「テキトーにがんばれ」みたいな軽い言葉にはげまされることもありますし、親切について深く考え込まなくても十分です。
前に、「きっと世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」と歌う曲が流行りましたが、当時の僕は「なにを生ぬるいこと言ってるんだ。金に物を言わせろ。金が共通言語だ」なんて思ってました。今では、喋らなくても伝わることもあるかと思ったりする次第です。
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