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頭痛のこと


先日、「執着について」の投稿で、無理のあるスケジュールを組んで頭痛がちになっていることを書いた。
自分にとって1番大切な「健康であること」を柱に生活を組み立てることを最優先に。
ただ、それによって頭痛との付き合いが完全に無くなるものではなく、私と頭痛の関係はなかなか深いものなので、その経験を少し書いてみます。


慢性的に頭痛が出るようになったのは20代。かれこれ20年の付き合い。
それでも、30代半ばまではそこまで酷く出ることは少なく、生活に支障ない程度で付き合えていた。
けれど30代後半へ入り、様子が変わっていった。

まずは頻度、週1回が週2回になり、4回になり、最終的には毎日に。
強弱の波があるものの、月2回は発作のような激しい頭痛。気力だけで終業時刻まで持ち堪えても、車の運転ができず、何度も停まって休みながら帰宅したり、どうにもならない時には夫に職場まで迎えに来てもらったり。

1度、終業時刻まで数時間ある中でどうにもならなくなり、トイレへ行くふりをして休憩室へ行き、そのままソファの上で意識が朦朧となってしまったことがあった。
そして、同僚が発見し大騒ぎに…
保険調剤薬局へ勤務していたので、道路を挟んで向かい側には市立病院がある。
落ち着いたら病院へ行かせてもらおうと、朦朧とする意識の中で考えていると、階下から何だか緊迫した複数の声と2階の休憩室へと駆け上がってくるたくさんの足音が。

「大丈夫ですか?!!」
「へ?えぇぇーーーーー!!?」

なんと、脳神経外科T先生が救急隊員2人を伴って目の前に。緊急性の高い脳疾患を心配した薬局長がT先生へ連絡を入れてくれたのだ。
人はあまりに驚くと、そんな意識朦朧の中でも一瞬、冷静に我に返ることを知った。

救急隊員1人の背におんぶされて1階へと降りていく。薬局内にいる患者さんたちが、なんだなんだと一斉にこちらを見ている。激痛と朦朧と恥ずかしさの狭間で担架へと移され、お江戸の籠屋よろしく、エッサホッサと(実際は、ほとんど揺れの無い見事な搬送)、居合わせた人たちの注目を浴びて病院へと運ばれた。

余談だけれど、T先生と救急隊員さんが与える心強さと安心感といったら、それはもう素晴らしかった。「もう1人で頑張らなくていい。甘えて委ねよう。」と思わせてくれる存在がいると、それだけで症状が緩むのだ。私の場合は頭痛だから、なおさら、そういった精神面、心理面による変化が大きかったのかもしれない。

精密検査の結果、重篤な脳疾患はなく、重度の緊張性頭痛だと伝えられた。加えて、先天的な骨格や遺伝によるところも大きいため、一生付き合っていくものだとのことも。
私が幼い頃から、同じような症状で苦しむ母の姿を見て看病もしていたので、20代で頭痛が出始めた頃から、しっかり譲り受けているのだろうなと覚悟はしていた。

次に生まれ変わる時3つ希望を叶えてくれるとしたら、そのうちの1つは確実に「頭痛のない人生」だ。
実際、これまでの、そして今もなお、頭痛によって失っている時間とお金は大きい。

頭痛が出ている時、視覚と聴覚からの刺激が響いてとても辛い。つまり、ディスプレイを見ること、文字を読むこと書くこと、音楽や音声を聴くこと、全てが頭痛を悪化させ苦痛になってしまう。
なので、(可能ならば)停まらざるを得ない。何もできない。
周りがどんどん先へと歩いていく中、本意では無く停まらざるを得ない。自分だけが遅れていく焦りが生まれ、そんな自分を不甲斐なく感じて気持ちも落ち込む。

だからこそ、頭痛での苦しみを味わい尽くしているからこそ、いかに頭痛にならずに過ごすかは、絶え間なく大きなテーマだ。

自分がしたいことを叶えていくことと、頭痛にならない生活の両立。
自分がしたいことを諦めて頭痛の無い生活を実現する、のではない。
なぜなら、したいことを諦めることは、自分の人生の「悦」を手放すことになるから。

先の文中で”頭痛によって失っている時間とお金”と書いた。
“失っている”を「自分にとって価値あるものへと交換できている」
と考えられるかどうか、それも今の私の大きなテーマ。

1つは、同じように苦しむ人に寄り添えること。これは私の大きな価値になっていると思う。
ただ、寄り添うに十分な経験を積んでいるので、もうそろそろ解放してください…が本音ではある。

何を隠そう、この文章を書いている今も、絶賛頭痛中。
今回の頭痛はなかなか酷い方で、3日間続いている。
けれど、これは最近わかってきたことなのだけど、なんとか動けそうな状態へと落ち着いたら、思い切って外へ出てみる、そして、自分が好きな場所で好きな人と会話をする。
すると、症状が和らいでくるのだ。

今日もそう。だから、こうして文章を書くことができている。

そんな経験をして感じていることは、私も誰かのそんな存在になりたい、ということ。
救急搬送された際にドクターや救急隊員から感じた「1人で頑張らなくていいよ。安心してゆっくりと甘えて委ねていいよ。」にも通じるなと、今、思った。

この発見も、頭痛経験からの価値交換だ。

そうそう、パン学校の東洋医学の授業を通して学んだことで
「ストレスに強い人とは落ち込まない人ではない。ストレスに強い人とは、落ち込んでもその後程なくして浮上できる人のこと」なのだそう。

ちょっと無理やりかもしれないけれど、頭痛にこれを当てはめてみると:
・落ち込まないことが◎ではない
 →頭痛にならないことが◎ではない(なってしまう時があってよし)
・落ち込んでも程なくして浮上できる
 →頭痛で何もできなかったことを引き摺らない。頭痛中の時間をただ受け入れて無駄と考えない。
  治ってからの時間を楽しむことに全力を注ぐ(→抑制からの解放!)

頭痛の時間分、無駄にしてしまった、遅れてしまった、損してしまった…
と考えれば、そうなる。
そして、これらの価値は全て、自分の外との比較によるもの。
たとえ実際に何もできなかったとしても、そこへマイナスの価値を与えずに、ただそうだった、と受け入れる方がずっといい。

自分のために自分に都合よく考える。
自分の機嫌をとるのは、いつだって自分自身なのだ。

頭痛とお付き合いされている皆さま。
頭痛との付き合い方、頭痛からの価値交換
ナイス発想や経験談があれば、ぜひ教えてください(笑)
頭痛のある人生、楽しみましょうね。

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