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置かれた場所で咲きたくなんかない。

25歳の夏、仙台で大学職員をしていた私はとうとう退職の意を固めた。揺るぎない決断だった。職場の信頼する先輩に打ち明けたところ、それはもう驚くほど反対された。やむを得ない事情もなく自己都合で辞めた人は過去十年で一人もいないという。長期休暇も自由に取れるし、残業はほぼなく、給与制度もいい。たしかに辞める理由など特にないのだろう。でも私にとってそこは重要な要素ではなかった。超保守的な環境を飛び出して、上京し、新しい仕事にチャレンジしたいという思いを、もう隠せなかった。

先輩から届いたメールの中に「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があった。有名な本のタイトルだからこの言葉自体は知っていた。読んだことはないので本の真意は分からないのだが、なんとなくこの言葉自体は好きじゃないと思った。「今の時代なら、置かれた場所で咲かないこともできる」という反発心に近い思いすら抱いてしまった。

だって、やりたい仕事にチャレンジすることも、ゼロから何かを目指すことも、本人の自由だ。全て思い通りに叶うとは限らないが、一歩踏み出す権利はその人にある。なんであえて、置かれた場所で生きていく決意をしなくてはならないのだろう。もちろん、人にはいろんな事情があるから声高に言うつもりはないが。

結局、示唆を与えてくれようとした先輩には申し訳ないが、退職へと至った。ちなみに、あくまで「置かれた場所で咲きなさい」という言葉自体への主観的な言及であって、本自体の批評をしているわけではないことを申し添えておく。

あれから三年が経つ。結果的に仕事を辞めたことに対する後悔は全くないし、上京してよかったと思っている。知っている世界は随分と広がったし、想像もできなかった人生が今ここで動いている。そもそも、自分は違和感たっぷりの環境で息苦しさを感じながら生きることが極度に苦手なのだと省みる。もちろん努力で変えられる部分もあると思うから、初手としては今ある環境やマインドを自分で変える努力をする。しかし、どうにも変わらないものはある。しょうがないと諦めて、50点くらいの心持ちで毎日を過ごすことがどうも私には難しい。やっぱり、置かれた場所で五分咲きに落ち着くのではなく、一度きりの人生だからこそ大輪の花を咲かせてみたい。思いっきり、満開で。そのためには決断が必要となるタイミングもある。

基本的に友人の決断(転職や離婚など)は全面肯定のスタンスだが、背景にはこの価値観が影響していたりする。変化を選んで前に進もうとする姿を応援したい。満開に生きるためのステップだと思っているから。

とはいえ、いつか私にも完全に「置かれた場所で咲く」日が来るかもしれない。そのタイミングは急に訪れるかもしれないし、ライフスタイルの変化と共にやってくるかもしれない。その時にどう受け止め、どういう人生を歩んでいくのか今は想像することが難しい。

「一周回って、置かれた場所で咲くのも結構いいもんだよ」と、未来の自分が懐かしそうにこの文章を読んでいる気もするし、「もっと激しく渡り鳥のように生きているよ」と笑っている気もする。

変化を歓迎するスタンスが災いしてぶっ飛んだ人生になったらどうしようという不安もある。でも、それもそれで面白くて最高と思えてしまうから、もうどうしようもないのだ。

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