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HSPだけど、それでもいっかな。

「HSP」が広く知られるようになった。私が最初にこの言葉を知ったのは4年前くらいだっただろうか。チェックリストを終えたあと、「完全に自分じゃん」と笑った。

「HSPです」って名乗るのは、自分を型にはめすぎている感じがしてなんとなく避けてきたけど、今日はそんな切り口で書いてみます。

思えば昔から繊細だった。小学校低学年の頃、騒がしい教室の中で「先生困ってるな」と感じ取り、1人静かに前を見る子だった。相手がどう思って、どうしてほしいかが自然と分かった。大人からはいい子に見えたと思う。

誰かが泣いていると、なぜか「自分のせいかも」と不安になってしまう時期もあった。わずかな勇気を振り絞ってこころの相談室のような団体に電話をかけてみたが、「なんでー?」と笑われてしまったので、もう大人に話すもんかと思った。(たぶんこの時期が人生で最も繊細だった)

受験期は、周りに人がいると落ち着かなかった。「あの人は今眠そう」「あの人は今ストレスが溜まってるみたい」と関係のない人々の情報が望まずとも脳に入ってくるのだ。

そんな幼少期〜10代を過ごす中、どこか自分が他人と違う感覚・感性を持っているような気がしていた。別に嬉しいことではなかった。

大人になってから、HSPを知った。人生が紐解けた気がしたし、意外とHSP人口も多いみたいでホッとした。「自分だけが他人と違う」と思っていたから、似た感覚を持った人がたくさんいると知れたのは大きかった。

30を前にした今も、やっぱり繊細なタチだなあと思う。

痛ましい情報・映像に触れると1週間くらい引きずるし、誰かが怒られている場面に出くわすと緊張するし、ものごとを馬鹿真面目に捉えすぎて1人で苦しんだりする。

こんな自分は、別に好きじゃない。もっと鈍感になれたら楽なのに〜と気質を恨めしく思うこともある。

そう、HSPは気質だから、自分の意思で変えられるものでもないのかなと思う。思考の癖を工夫したり、行動を変えることはできるだろうけど、気質そのものを入れ替えることはまあ、難しそうだ。違う人格と入れ替わるレベルの話である。

でも実は、繊細でよかったなと思うこともたくさんある。

美しい自然を前にしても本を読んでも音楽に触れても、人一倍感動できる。(他人になったことはないから推測に過ぎないけど。でもいちいち感動する)

隣の人の感情が自然とインストールされるから、その痛みも喜びもまるごと包んで寄り添えたりする。相談屋体質なのは、たぶんそれが理由。

好きな仲間と美味しいものと食べていると、「幸せ」と100億回心の中で唱えるくらい幸せを感じられる。

自分のこういう部分は純粋に好きだ。この部分を取り去ってまで鈍感さを手に入れたいか?といったら、Noだな、と思う。気質を恨めしく思う時もあるけど、うまく付き合っていきたい気持ちが強い。

繊細だから、今の私がいるのかもしれない。過去の言動は、繊細さゆえに生まれたものがたくさんあるから。

今日も私は、冬のツンとした空気を吸って気分爽快になって、掃除をしてさらに気持ち良くなって、本を読み耽って世界に没入して、誰かの言葉で傷ついたり考えたりして、映画を観て泣いて、急に気怠い気持ちになって、バスタイムで心を落ち着かせて、パタンと寝るのだろう。

心を凪にした方がきっと楽だけど、心の荒波をサーフィンすべく生まれてきた人間なのだから、それもそれでいいかな、と思う。

ある意味、毎日が驚きと感動の連続ってことでもある。世界旅行する気持ちで、今日も普通の日常を楽しんでみよう。

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