見出し画像

ティク・ナット・ハン師のセレモニーによせて

22日からベトナムのプラムビレッジをはじめオンラインを通して各地で行われていたセレモニー。今日は火葬の日で師を乗せたトラックが街を移動する様子がずっと配信されていた。

街の中を進むトラックと道路脇でそれを拝む人々の姿を見て、スピリチュアルリーダーが存在する場所を羨ましく思った。

そしてふとお祖父ちゃんのお母さん(私の曾祖母だけど生前に会ったことはなかった)が亡くなった時、葬儀に参列したような記憶が微かに蘇った。

35年以上も前の記憶。それが本当に自分の記憶なのかは定かではないのだけれど、昔は田舎の方だと人が死んだ時に葬儀に参列って文字通りみんなで歩いたんじゃなかったっけ。今は家族も小さくなって、火葬場で焼いて骨になって骨を集めて終わりというのも少なくない。

何が言いたいかというと、生まれて生きて死んでいくという自然な流れの中で、死の部分が日常の生活からバッサリ切り取られていて、死は突然現れる惨事になってしまったように感じた。

でもスピリチュアルリーダーの穏やかな葬儀を見て、自分も自然の一部である安心感、自然のサイクルの中にいる安心感のようなものを感じた。

死に対する好感というか親近感は、別にネガティブなマインドから発生するものではなく、自然の法則に対する信頼感のようなものなのではないかと思う。

日常が死ぬまで続く生き方という前提にないって、ゴールに向かっていない感じがしてしまう。それもただの観念と言ってしまえばそれまでなのだけれど。

経済成長を生むこと(物質世界での欲を満たしていくこと)が割と世の中での生きている間の価値の中心に据えられていて、精神性を向上させることは二の次になってしまうことがあるのではないかと思ったりするけど。

精神性を向上させて生きることは、
人間の生命の消滅の間にあるartなんじゃないかな。

経済成長はそれを支える糧であるとしても、経済成長自体が目的となってしまうと、それは破壊と不協和音のartになってしまうのではないかなと。

そんなことを感じた。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?