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雨あがりの夕ぐれ時        ~”たそがれてゆく子さん”を読んで~

あれからずっと書けなかった。書きたいときもあったと思うけれど、書けなかった。それほどに忙しかった。本当に忙しかった。それは夏休みに入った今もそうで、夏休みをとろうとするその日に、夏休みだからできる研修が入ってくる。休みたいけれど休めない、休みたかったけれど休めなかった一学期。よく頑張ったね。体調管理もよくやったね。と自分につぶやく。

子ども家庭庁が発足して、その法律に基づいての組織建てを整理していく、その最中にあったこの数カ月。その出先機関に週二日通っている。おかげで本業は二の次のようなありさまで、その出先機関の慌ただしさ・手探り感に翻弄されていた。誰もが翻弄されていて、それは何よりも先んずるためなのだろうか。しかしほぼほぼその体制はすでに整っているのに、そこをめざしての動きには、先ず人手不足。そこに補助として導入されるわたしたち。その不確かさに惑わされているのは、わたしたちよりもそれをせんとする上司たちであったように思う。そして今も迷走中のようだ。

そのような仕事に追われる日々の中での楽しみの一つは、生協で本を購入すること。それは図書に見識のある生協スタッフの方々からのお薦めがあるので安心してそこから選んでいる。ましてや定価の一割引き。税込みで定価足らずで購入できる。なので多い時は2万円・3万円の図書を購入してしまう。今回もお薦めの中から大量購入してしまった。その中の一冊。

詩人としてお名前は存じ上げていたがこんなにもフェミな方とは知らなかった。文体も内容も裏表がない感じが安心して没頭できる。その世界にどっぷりはまってしまった。わたしにしては読む速度が速い。久しぶりに専門書以外の本を手にした。そしてその体温のような温かさ、忌憚ない正直さ、さらけ出し加減に引き付けられた。今までこの方の魅力に出逢ってなかったことを残念に思う。でも今までに出逢っていたら、かなり自身の人生や心揺さぶられていたかもしれない。忌憚のない自身の生活を分掌にしたエッセー。そこにはなき夫の介護が中心に書き留められていた。そこには愚痴のような人への愛情、両極の様々な想いでありながら温かい人を想う気もちが綴られていた。

わたしは夫や夫の両親そして自身の両親の、いわゆる介護というものを経験していない。わたしの両親は脳血栓系で、倒れて動けなくなり病院でいくばくかの時間を経て亡くなっている。わたしの母の時は母方の叔母から「引き受けたらあかんよ、あなたたちの生活が無茶苦茶になる」という一言が今も頭に残っている。確かにわたしたちの生活は乱されるされることになるだろうが、そういうものだろうとどこか思っていた。幸いにも無期限でみてくれるという病院があり、わたしも兄も、ましてや本人が3か月ごとに入退院を繰り返す生活をしなくて済んだ。幸か不幸かわたしには「親を介護する」という機会を失った。父は倒れて2か月後に亡くなった。倒れてから亡くなるまで集中治療室と一般病棟を2~3回行き来して、その間、意識は戻ることがなかった。兄から最後の連絡を受けて、やっと着いた時はすでに息を引き取っていた。なのでわたしは両親の死に目には合えていない。

夫の両親も手がかからないというか、突然死のように亡くなった。夫の父は検査の結果を聴きに行く朝。準備を済ませて出かけようとするときに「ちょっと」と玄関にしゃがみ込み、そのまま息絶えたとのこと。その10日ほど前にわたしと夫は結納をしていた。義父はどこか安心されたのかもしれない。夫の母は、わたしの仕事の時に家の子どもたち、特にむすめの面倒をよく見てくださった。12月のクリスマス前、むすめの友達が止まりに来るので夫が義母のところへ様子を伺いに行き、「明日はよう来ないから」と言い残して帰ってきた。その時義母はエレベーターホール迄夫を見送っていた。そして明後日夫が様子を伺いに行くと亡くなっていた。事件の可能性を確認するために警察に一端遺体は引き取られたがおだやかなお顔だった。故に夫も両親の死に目に会えていない。夫は「勝手に逝きやがって」とつぶやいていた。

なのでわたしは両親の介護の経験がない。それはこの社会の中で生きていく中では、どこか欠落しているようにも感じることがある。夫に関しては未だこれからのことでどのようになるかは誰も知らない。夫がわたしを看取るかもしれないし。ね。

そのようなわたしが今ソーシャルワーカーとして働いている。わたしとしては相談者にどのように関わるか、誰かと共有しながら進めるので、なおのことどうしていいかわからないことも多く、故にいま一歩深く踏み込めない感も持っている。
久しぶりにたそがれてゆく子さんのような自伝的生活赤裸々系体験型エッセーを読んで、正直に一番初めに感じたのは、わたしの今の仕事はまだまだだな、体制の、組織の上で、関わっていくこと…関わり切れていない。組織的な動きでしかないのではないか、という薄っぺら感である。そこに触れていない、声を聴いていない、寄り添えているのか?情報を提供しているのか?一緒に考えているのか?その体温のようなものを感じることができないでいる自分だな、と。

たそがれてゆく子さんの生活の中で、友人から何回か聞いた言葉が印象的であった。それは夫に先立たれた妻である友人たちが言う「さみしい」という言葉である。本当にそうなのだろうか?わたしはもともと自分自身の孤独をもっている。そのことを考えると一気に落ち込んでいきそうな孤独をもっている。それに加えてより「さみしい」となるのだろうか?わたしはわたしのもっている「孤独」がより強固なものに変化していくように考えている。これからやってくるだろう夫とのいろいろを思う時、ひたすら逃げ出したくなるけれど、自分自身の後悔のないように過ごしていきたいと思う。

酷暑の夏にひと肌の温かさを感じることができた本に出逢えたこと。
多謝。





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