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雨あがりの夕暮れ時          ~ゴジラ-1.0を観て~

先に観に行ったむすめが
もう一度観たい、という。
そんなによかったのだ。

Facebookの友人もすすめてきた。
ドイツ在住のコラムリストも絶讃していた。
これは観といたほうがよさそう、と思いむすめの2回目に便乗する。

特攻を離脱する、その発想が当時の飛行士にあったのだろうか。
あったとしても、それはいのちがけの覚悟でないとできなかったことだろう。
このストーリーの始まりだけでも反戦映画になりそうな気がする。
その「生」への渇望をゴジラが後押ししたのか?

「生」への渇望は新たな出遭いを招き、それは自責の念への罪滅ぼしか、新たな「生」へのよりどころか。この感情の起伏が、戦争の悲惨さと理不尽さをもって観るものに迫ってくる。

主人公が同居人に悪夢の理由を話す。
戦後70年以上が経って日本ではようやく語られるようになったその様子。
遅すぎる現実の開示。
でもこの映画の中では戦後3年目?に語る元特攻隊員。これはトラウマを昇華するために必要なことで、それをこの時に語ることは彼のトラウマの昇華が早まるいい傾向だ。これは心理学の中でもそのように認められている行為だと捉える。
この重い、自分の不甲斐なさ・やるせなさを語る。そのことが彼を「生」へと向かわせる。そのきっかけを作ったのはゴジラだ。

その島でのできごとーゴジラとの遭遇ーの葛藤を抱えつつ戦時中に身につけた技術を使うために再会をはたす技術者。それもゴジラを倒すために。ここにも「生」への渇望があった。

ゴジラを倒すその方法はこのところアナログな方法で、とてつもない仮定・想定のもと実行される。アメリカも国家も当てにできず、民間の手でゴジラに立ち向かう。それは何より国家を再構築するため…とはいえ何とも心もとない手法。

それを考案した学者は
「一人のけが人も出さない。未来を生きるために。」そして、先の戦争への日本の不甲斐なさを説明に加える。
このシーン、吉岡秀隆さんだから言えたセリフ、言わされたメッセージではないか!と感じた。
これは紛れもなく反戦映画だと感じた。

これまでに戦時中・戦後を舞台にした映画で聞いたことの無い言葉が立ち現れる。
「戦争に行かなかったことは、しあわせなことだぞ」

本当に心からそう思う。

「ゴジラ -1.0」というタイトルの意味することはどういうことか?
戦時で焼け野原になった東京に再びゴジラによって破壊されたことが「―1.0」の意味するところなのか?

わたしはこの映画は歴史の流れの中でゴジラを通して戦後日本が戦争を消化するための一篇であるように感じる。特攻隊員が特攻を回避したこと、ゴジラと遭遇するも生きながらえること、ごじらへの恐怖も手伝って自身の戦時中の体験を話せたこと、同居人との出逢い、同居人が引き取った子どもの育ちや未来への想いが元特攻隊員の人生を「生」へ向けたものと思われる。そして、この敗戦を背景にした物語がロングランを成している。
「ゴジラ -1.0」はわたしはタイトルが違うような気がする。
この映画は戦後を生きる人へのエールであり、ゴジラと対峙することで戦争の精神的な部分を消化する反戦映画だと感じた。
なのでわたしの中では「ゴジラ+1」である。

俳優陣はみなさん、持ち味を最大に発揮されていて熱演でした。もう少し、溜めが欲しかったかなと感じるシーンがところどころあった。でもそうするとテンポが悪くなるのかな。でもここってところは為てほしかったな、と思う。

この映画のなかで
生きててよかった、神木さん。


映画『ゴジラ-1.0』公式サイト (toho.co.jp)


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