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風の音と、心の音~「聞こえないこと」の思索と物語

難聴児医療・教育界の92歳の長老、田中美郷先生が教えてくれたこと⑥

初回のこのシリーズでは、半世紀にわたり、医師でありながら、そのワクを超えて難聴児の療育に携わってこられた田中美郷(よしさと)先生の思いや、そのベースとなった哲学に迫ります。
今回は1970年代半ばに田中先生が出会った、言葉を知らない55歳のろう者の女性が、いかにして言語を獲得したかというお話です。

Photo by yuyashiokawa

▼言語を獲得せずに成人した55歳のろう者の女性が
「ものには名前がある」と気づくまで

それは田中先生が帝京大学病院耳鼻科に移られた後の話です。
田中先生は診療のかたわら、当時板橋にあった、東京都ろうあ者更生寮の顧問を引き受けられました。
そして1か月に1回ほど更生寮を訪問し、職員の皆さんの相談に乗っておられました。

顧問を引き受けて間もない頃のこと。
その更生寮の手話を使う職員から「55歳の女性が入所してきたけれど、手話も通じないし、言葉も筆談も通じません。助けてほしい」という連絡がありました。

田中先生は更生寮に出かけて行って、その女性と面談しました。
机をはさんで差し向いに座り、「お名前は?」「ご家族は?」と質問を始めると、その女性はそばにあった紙と鉛筆を手に取り、「父〇〇さん(昭和)50年、母〇〇さん62年5月死亡、兄〇〇19年不明戦死」と書いたのです。

田中先生は驚いて、もしかしてこの女性は言葉が理解できるのではないか、文字を通してコミュニケーションを取れるのではないかと、いろいろな方法で女性に問いかけをしてみました。
しかし、女性のほうは、どのアプローチをもってしても、何を問われているのかさっぱりわからないらしく、黙って、少し首を傾げたり、横に振ったりしながら、田中先生を見るばかりでした。

ではなぜ、その女性は文字が書けるのでしょう?
田中先生はそれについては、「きっと親御さんが、自分たちが死んでしまった後の、娘の先々を案じて、娘に覚えさせたのだろうと思う。
女性は、文字の意味はわからずに、記号を覚えるように、何度も書いて覚えたのだろう。
身振り手振りで家族とはある程度の意志疎通はできただろうから、『それを書いて人に見せるように』と親が教えていたのではないか」
つまり、「子どもの首にぶら下げる迷子札のようなものだったと思う」とおっしゃっています。

▼どうすれば、ものに名前があると気づくだろうか?

田中先生はヘレン・ケラーや前回ご紹介したエミちゃんの場合と同じく、言語獲得の始まりは「ものに名前があることの発見」と考え、「いかにしてものに名前があることを気付かせるか」をポイントに、女性に対する言語指導を始めました。

そのときに田中先生が用いたのは書き文字でした。
女性は自分でも意味は知らないままに文字を書いてみせたのです。少なくとも、文字という記号の存在は知っているのだから、文字をつかって、ものに名前があることを気付かせることができるのではないか…。

田中先生が注目したのは漢字です。語の意味を悟らせるには、漢字は有利です。
たとえば「はな」という言葉を発音やひらがらで提示しても、意味するものが「花」なのか、「鼻」なのかはっきりしません。
しかし、漢字を示せば、意味するものが明確に伝わります。

まず湯呑と急須を用意し、女性の前で渋めのお茶を煎れました。
湯呑にお茶を注いで飲んでもらい、「茶」と紙に描きます。
湯呑を指して「茶碗」と書く。
絵を描いて、急須から流れ出るお茶をさして「茶」と漢字で書き、湯呑の絵を描いて、「茶碗」と漢字で書く。

2回目の対面ぐらいで、女性の目に理解の色が浮かんできました。
顔が輝きます。
「いつも飲んでいるこれは、『茶』(文字)。お茶が入っているのは『茶碗』(文字)…!」
田中先生は、たしかにこの女性は、目の前のものに名前があることに気付いたと感じました。
そして、その通りだったのです。
それからは『灰皿』…『箸』…など身近なものを手にとっては、漢字を教えていきました。
その際、手話が使える職員もそばにいて、そのつど手話も教えます。
もともと利発だったその女性は、言葉をどんどん吸収していきました。

▼学ぶことを始めるのに「遅すぎる」ことはない

田中先生がびっくりしたのは、しばらく月日が経ってから、その女性が自分で書店に行って、小学生低学年向けの簡単な国語辞典を購入してきたこと。そして辞書のページをめくって言葉を覚え始めたことです。
多分辞書のことは、更生寮の職員に教えてもらったのでしょう。
それにしても、素晴らしい学習意欲です。

女性は言葉は知らないなりに、これまでの生活体験に基づいていろいろ思うことはあったでしょう。そういういろいろな思い、知恵が新たに学んだ漢字で表現される言葉と結びつき、「言語の獲得」をすることができたのだと思います。
年齢がいくつであろうと、何かを学び始めるのに「遅すぎる」ことはない、ということでしょう。

さて、そのろうあ者更生寮は、2年間しかいられないという決まりがありました。
女性がいよいよ退所しようかというころ、女性が書いた手紙が下の写真です。

↑ 55歳のろう者の女性が、更生寮を退所前に書いた手紙

田中先生はこの手紙を読んで深く感動し、これは奇跡と呼んでもいいのではないかと思われました。
やはり「ものに名前があると気づくこと」が言語獲得の出発点。
そのことに間違いはないと、あらためて確信を強めた、忘れられないエピソードです。

いかがでしたか? 
ろう/難聴者は、聴覚に障害があるがゆえに、言葉までたどりつくのに一苦労あります。そこには、それぞれの人の数だけ、言語獲得のドラマがあるのです。

さて、次回・7回目の記事は、再び話をホームトレーニングに戻し、「田中先生が言葉を教えるときに禁じていたこと」についてお話したいと思います。
何にもまして「親子の信頼関係」、そして「子どもの気持ちを大事にする」ことが大切なのだというお話です。


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