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裏切りの運命。

先週、ベルギー国立管ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』に取り組みました。

といっても、オペラ全曲を演奏するわけではありません。このオーケストラでオペラ全幕を舞台ありで演奏するのはとても稀で、前回は6、7年前になるそう。
今回のプロジェクトでは、Henk de Vlieger というオランダ人の編曲によるオーケストラ組曲を土台に、指揮のアントニー・ヘルムスが改変を加えて、オペラの第二幕のデュエットを挿入することでトリスタン、イゾルデとブランゲーネ役、3名の歌手との共演が実現しました。
ちなみにこのde Vliegerによる編曲では「ニーベルングの指輪」四部作の編曲もよく知られていますし、2021年、私がコンサートマスターの試用期間2公演目の曲目は「ニュルンベルグのマイスタージンガー」組曲でした。

現在のベルギー国立管チーフ・コンダクターのアントニーはオペラをよく振っていて、特にワーグナーは主なレパートリーとして長年取り組んでいるだけあって懸ける思いも一入。オーケストラとしても、ワーグナー作品で演奏できるのはだいたい前奏曲やごく短い抜粋に限られてしまうので、今回のプロジェクトは大きな喜びでした。

『トリスタンとイゾルデ』の物語りはとても有名ですが、一応あらすじを。中世ケルト伝説のお話をもとにワーグナーが創作したストーリー。

イゾルデはアイルランドの王妃。コーンウォールのマルケ王に嫁ぐため、侍女のブランゲーネとともに船に乗っている。
舵を切っているのはマルケ王の甥である勇者トリスタン。かつてイゾルデの
許嫁を討って自分も深手を負った際、正体を隠して治療をしてもらおうとイゾルデに頼んだことがある。イゾルデは偽名を名乗っているのがトリスタンであることを見破り、憎しみのあまり刀を振り上げたが、結局憐れみを抱き治療を施したのだった。
トリスタンは叔父のマルケ王にイゾルデとの婚姻を勧めたうえ、自ら仲介役を買ってでたのであった。
イゾルデはトリスタンを呼び出して、自分に大きな命の借りのあることを自覚させたうえ、犯した罪に対する謝罪を要求する。そして「和解のしるしに」盃を分かとうことを提案する。
イゾルデはコーンウォールに着く前にトリスタンもろとも死ぬ覚悟だった。(この時点でふたりは密かに惹かれあっていた…?)侍女ブランゲーネはイゾルデ母から持たされた秘薬のなかから毒薬を調合するようにとイゾルデに言い付かっていたが、恐れをなして薬をすり替える。
実際にふたりが飲んだのは媚薬だった。
ふたりはマルケ王の狩りの合間に密会するが、その狩りは王の家臣メーロトによりしくまれたものだった。マルケ王は裏切りを嘆き憤る。メーロトはトリスタンの親友だったが、トリスタンに刀を向ける。トリスタンはこれを受け入れて倒れる。
トリスタンは従者クルヴェナールの介抱によってブルターニュに戻る。クルヴェナールは傷を治療できるのはイゾルデの持つ秘薬だけであるから、とイゾルデを呼んだことを知らせる。イゾルデの幻影を夢見るトリスタン。やがて到着するイゾルデだが、トリスタンは最期にイゾルデの名を呼んで息絶える。
そこへブランゲーネがマルケ王とともに急ぎやってくる。ブランゲーネは王に媚薬の秘密を打ち明け、トリスタンに罪のないことを知った王はすぐさまふたりを許しに駆け付けたのである。けれど、時すでに遅し。イゾルデはトリスタンへの愛を歌って自らも息絶える。

この作品を手掛けたころのリヒャルト・ワーグナーは、当時のパトロンの妻であり詩人のマティルデ・ヴェーゼンドンクとの道ならぬ恋をしていました。パトロン夫妻とワーグナー夫妻は親しく交流していて、夏の間は近くに住んでほぼ毎晩のように顔を合わせていた…こんな中で関係が深まったのも、まあありそうな話かもしれない。
ほとんど自作の詩にしか曲をつけなかったリヒャルトが珍しくマティルデの詩をとりあげていて、Wesendonk Liederとして知られる曲集には『トリスタン』のなかで使われる楽想が見られます。

第三曲『温室にて』は第三幕冒頭に同じ。

第五曲『夢』
前奏から、第二幕の愛の二重唱にそっくりそのまま使われています。調性も同じ変イ長調。


同僚と『トリスタン』について話していた中で、彼が話したことが興味深かったのでシェアしたいと思います。

「この物語のテーマは、裏切り、それも運命的な裏切りだよ。『ペレアスとメリザンド』とはまた違うでしょ。あのふたりには意志があったけど、トリスタンもイゾルデも、他の登場人物も、運命には逆らえなかった。」

(ドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』はちなみに、このワーグナーの作品を受けて ―アンチテーゼ、とか尊敬の念から、とか色々なことが言えると思いますが、とにかく大きな影響を受けて― 書かれています。)

このお話のなかではいくつもの裏切りがあるけれど、すべてが残酷に不可避なこと。裏切りが悲劇をうみ、それがまた別の裏切りをよぶ。
そういわれてみれば、どんなに足掻いても彼らにはこの結末しかなかったのかもしれない。たとえどの時点で誰が違う選択肢を選んでいたとしても、死しか、彼らふたりを結び付けてくれるものはなかった。

イゾルデが毒薬をトリスタンと分かとうとするのも、その盃が結果的に死ではなく狂おしい愛をもたらしたこと、全ては死という結末に必然的に導かれていることをみても、死≒愛、の図式がこの作品ではとても象徴的です。第二幕の、ふたりが愛の頂点を歌う箇所はそっくりそのまま、終盤にイゾルデが亡きトリスタンを前に愛を歌う場面に使われています(第二幕ではある意味愛の歓喜、官能性が強いのに対して、終盤の『愛の死』ではテンポが遅くなり、音楽の濃厚さがより伝わります)。まるでふたりの運命を予告するかのよう…。

今回もヴァイオリン・ソロが一瞬ありました。第三幕、トリスタンがイゾルデの来訪を夢うつつに見る場面。イゾルデがトリスタン、と呼びかけるモティーフと、二人が見つめあうモティーフが組み合わさったパッセージを、オーボエとクラリネットのソロと受け渡しながら対話します。「精神的深みと愛」を表現するらしいロ長調。素晴らしくロマンチックで、悲劇的な箇所です。

絶えず変化する調性に、和声の魅惑と豊潤さ。それだけに複雑で、音程感を合わせることなど難しい要求が多いですが、ずっと演奏していると酔ってしまうくらい。
休憩時間には同僚たちと、ただただ音楽の魅惑に圧倒された、という印象を共有したり。
濃い音楽体験でした。オペラ全幕を演奏、となったら、もっと酔ってしまうのでしょう。笑

『トリスタンとイゾルデ』より、前奏曲・愛の死。
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮のレアな映像、かもしれない。

2023年末まで、ベルギー国立管とはあとふたつのプロジェクトが残っています。雪がちらつくくらい寒い日々ですが風邪をひかないよう元気でがんばります。

それではまた次回!お読みくださりありがとうございます♡



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