拡張する身体はサイボーグ化するか?

「車を運転してる時、擦られたりするとものすごく頭にくるでしょう?あれは車体までが自分の一部のようになってるからですね」

週末の講義で精神科医の先生からこんな話を聞いた。
何か道具を使っている時に、しばしば人の身体感覚は拡張する。
一流アスリートなら例えば剣道なら竹刀まで、卓球ならラケットの先までが自分の手足のように感じるという。
道具越しの感覚にも関わらず「球が柔らかい」とか「氷が硬い」という表現をよく聞くが、考えてみたら直接触っていないのに触感がわかるのは奇妙なことだ。
それが「身体感覚の拡張」という概念だということは、ちょっと驚きだった。

そう考えてみると、様々なシーンで人は道具を使いながら身体感覚を拡張させている。
一方で、道具さえ使えば必ず拡張がうまくいくとは限らない。
料理で包丁を使う時、思った通り繊細に食材を切れる人もいれば、うまく出来ずに指を切ってしまう人もいる。

身体感覚の拡張がうまくいくと、その道具の習熟度は格段に上がり、扱うことが面白くなる。
道具を使うスポーツは、特にわかりやすい例だろう。
楽器もそうだし、自転車や車もそうだ。
生身の人間が出来ないことを、身体拡張して叶える。
少しだけ自分が大きくなるような感覚は、ある種の快感でもある。

一方で、身体拡張が苦手な人も一定数いる。
多分私はそうだ。
道具を使うスポーツが苦手だし、音楽は好きだが楽器はうまくならなかった。
体を動かすなら、道具を使わないダンスや、ただ走ったり歩いたり、せいぜい拡張されるのが靴までが良い。
音楽は最終的に楽器を使わない「歌」にたどり着いた。
車や自転車もさほど好きではない。

この差は一体どこからくるのだろう。
そして、どういう傾向があるんだろう。

私は身体拡張より、生身の身体で感じることが好きだ。
もしかしてこういう感覚が、昨日書いたようなWEB墓への違和感につながっているのだろうか?

人はおそらく、どんどんサイボーグ化する。
体のどこかがダメになったら、人工物で代替することは既に始まっているし、この流れは加速するだろう。
生身の身体にこだわるのか、サイボーグ化して身体拡張を選ぶのか。
もしかすると、身体拡張性は人の死生観にも関わるのかもしれない。

豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。