ネクラの幸福論
先週、人類学者の磯野真穂さんの講座「聞く力をのばす」受講者オンライン交流会で、「ネアカとネクラの違いは?」というお題が出た。
ブレイクアウトルームごとにお題が提示されていて、この部屋は「明るい人は入室禁止」とされていた。
というわけで、部屋には自称ネクラが5人集まった。
まず、それぞれが持っている「ネアカ」のイメージが面白い。
「ポジティブ」
「パリピ」
「陽キャ」
そんなキーワードで語られるネアカ像。
「ネガティブもよくよく考えるとポジティブなんじゃないか?」という名言も飛び出した。
「場面によってキャラを使い分ける」
「陽キャを装って、親しい人の前では陰キャ」
というように、使い分ける説もあった。
色々聞いているうちに、ぼんやり思っていた持論が輪郭を帯びる。
それはこんな概要だ。
ネアカな人はネクラな人よりも、色々な感受性が低いのでは?
何事もあまり深く考え込まずポジティブに見えるのは、感受性が低いからなのでは?
この言い方は誤解を生みそうな気がする。
「感受性が低い」というのはけなしてるように聞こえそうだが、そういう訳ではない。
ただ、オリジナルでうまい言い換えが見つけられなかった。
この話を別の人にしたら「ああ、鈍感力的な?」と言われて膝を打つ。
渡辺淳一の『鈍感力』は未読だが、多分言いたいことは大まかにそういうことだろう。
そういえば最近「反応しない」「気にしない」という言葉がタイトルについた本が目につくようになった。
多分「鈍感力」がアップデートされて、こういう言い回しになったのだろう。
それだけ世の中には感覚過敏で生きづらいと思う人が多いのかもしれない。
私もかつて、自分の感受性の高さで悩んだことがある。
もう少し鈍感なら、こんなに苦しくならないのに。
そう思って、感性に蓋をしていた時期もあった。
でも、何だかそれも違う気がしてやめた。
そんなことをツラツラ考えていたら、マツコデラックスが以前に似たようなことを言っていたのを思い出した。
「アタシはどんなに心が荒れてもいいから、すごい敏感でいた方が幸せな人なの。」
「平和なこと、幸せなことって何もないことに近いじゃん。いいことがいっぱい連続で起きるなんてことないじゃん。何もない日々が続くことが幸福なんだとすれば、アタシはけっこうきついなとか。苦しいなとなったとしても、何かあった方が面白いと思っちゃうんだよね」
まさに、これだ。
鈍感でいた方が多分楽だし、毎日そこそこ楽しくポジティブに生きられそうだ。
でも、感情の振れ幅が大きい方が、豊かで幸せだと思ってしまう。
振れ幅が大きいということは、ツラいことや悲しいこともたくさん起こる。
それでも、何か出来事に対して「ツラい」「悲しい」と思う感覚までは失いたくない。
その感覚を失う方が余程不幸だ。
何を豊かで幸せと思うかは、人それぞれ。
「平凡で、穏やかで、人並みが幸せ」という考え方はあるし、そういう人もいる。
そうするために敢えて鈍感を心がけている人もいるだろう。
でも、私はそうじゃない。
もちろん程度問題はあるとしても、感受性を抑えるようなことはこれからもしないだろう。
ネクラ万歳。
同志はきっと、少なくない。
豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。