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こじらせ女子よ、どこへゆく

こじらせ女子という名前は、雨宮まみさんが付けたらしいけれど、もう◯◯女子とか男子とか、そういう表現に辟易している。
でも、それは、当てはまるのが悔しいから。言い当てられない、何者にもない自分でありたいから。そしてそういうもがいている様が、すでにこじらせ女子の条件を暗に充してしまっているからなお腹立たしい。

自分に置き換えてみれば、ようやく過去の踏んだり蹴ったりを、こじらせ女子として揶揄することができるようになったけど、こじらせ女子を引きずり続けると、その末路はわりとヤバい。
済し崩し的にいろいろなことが決まっていき、自分の理想が周囲のものと反転していつのまにか自己犠牲への自覚すら消えてしまう。
そして気づいたら30歳、40歳になっているという恐怖。あわや、である。

衝撃だったのは自分の理想を言語化出来なくなった時。やりたいこと、夢、妄想はあっても、それらへ直結するための具体的なステップを、ちっとも段階的に考えられていないという事実。

例えばわたしは子どもが欲しい。一人ではなく複数。なぜかというと家族が欲しいから。自分の家族のような家庭を持って、子どもを育てたいと思う。憧れであり、理想。
では産もう、となるとパートナーが要る。しかも会ったその日にすぐ妊娠できるわけじゃないし、パートナーには個人の人生があってそれぞれ土台を作るための時間がいる。けれど複数産むとなると1人目は早めのほうがいいと聞く。

そして、はたと気づく。
あれ、あんまり時間無いぞ?と。

わたしは今23歳だけれど子どもを産むのにはタイムリミットがある。いずれそれも無くなるのかもしれないけれど(人工授精もできる時代ですし)、少なくともわたしは自然妊娠がいい。

若くてふにゃふにゃしているだけではもう駄目だ。分かってはいたけどもっと個人の人生において長い目で見たときの逆算をすると、すでにカウントダウンが始まっている。

焦るな、というおとなもいる。もう結婚してしまえ、というおとなもいる。どっちも正解なのかもしれない。でもこじらせ女子はいかんせん、思慮深く自意識が高くって、自分に自信がない。
そこから完全に抜け出すには、多少バカなふりをするか、感覚に素直にならなければならないらしい。

わたしはおそらく、まだこじらせ延長戦の只中にいる。これから脱却もできそうだが、こじらせのるつぼにハマることも否めない。なぜなら、感覚に素直になると、きっといろいろなことが壊れるし、それが怖いから。
大きくはないが小さな見えない傷をたくさんつけるだろう。だったら今、自分の気持ちを殺して誰も傷つかないであろう方を選ぶ。そのジレンマ。

どちらにしろ、こじらせ女子は今にとらわれ過ぎている。未来のための今ではなくて、今この瞬間のベストのために生きている感じ。
けれど、誰も傷つかずに手に入る未来はない。だったら思い切るかどうか、で、多少バカなふりをしてみるべきなのかな。いや、わたしはバカなんだけど、そういうバカじゃなくて、不必要な警戒心と思慮深さは捨てるべきなのかな。

自分の理想が、誰かの理想に覆われる前に、具現化すべく走り出さねば。だからやっぱり、生きているうちはいつだって時間がないのだ、自分ごとを見失わないようにしないと呑まれるぞ。ようく、見定めなければ。ぅむ。という、反省文。

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