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「地域おこし協力隊の成功例」という表現

北海道で暮らしていると、よく聞かれる。
「何故、その地域を選んだのですか?」。
次に聞かれるのが仕事のこと。
「何故、地域おこし協力隊になったんですか?」。

 わたしは自分が協力隊になるのだということを、のちのち知った。北海道の、下川町という町へ行くと先に決め、雇用形態はどうやら協力隊らしいと後日知ったのだ。関心がなかったわけではないけれど、こだわりもなかった。

 地域おこし協力隊は、3年間の任期がある。1年更新だが、わたしの場合はあらかじめ「3年間でこの仕事をしてくだい」と、町役場から仕事を与えられている身の上だったから、1年や2年で辞めようという発想にならず、3年間まっとうした。

 そして晴れて2020年に独立し、フリーランスになった。協力隊の任期を終えても、引き続き下川町で暮らしている。車も買ったし、家も買った。もうこのままここにずっと居て、ゆるく楽しく暮らそう、と言えばそうすることもできる。

 でも、暮らし続けるかどうかは、分からない。分からないし、決めようとも思わない。やりたいことはたくさんあるし、予測すら無意味な未来に対して、確定事項は何ひとつない。コロナ禍が続く現在を、誰が予測できただろう。

 分かっていることは、下川町での経験や出会いはなにものにも変えがたく、わたしにとって、この地域は大切な場所の一つになったということだけだ。

 そして、胸を張ってそう言える事実が、なによりもありがたいことで、それ以上も以下もない。

 ところが、ある日の会話の最中、わたしが協力隊の任期後も下川に残っている話をすると「協力隊の成功事例ですね」と言われた。

 この言葉に覚えた違和感を、無視できなかった。

 成功って、なんだ。成功があるなら、失敗があるのか。

 失敗は、どういう状態か。わたしが下川を出て行ったら、それは失敗なのか?

 もし、いま感じている感謝の気持ちはそのままに、下川を出て行ったとしても、やっぱり失敗と、表現されるのか?

 もしくは、どこへも行く気力がなくて、なんとなく下川に暮らし続けたとして、それは失敗なのか、成功なのか。

 協力隊という制度を使っている以上、国政の成果として「人の生き様」が、尺度に晒される。そんなナンセンスなことって、あるのかと嘆かわしいが、わたしたち協力隊の給料は血税だから、なにかリターンがなければ制度を設けた意味がないという主張も、分からなくはない。

 とはいえ、もっと個人の話にフォーカスしたとき、「協力隊」は国政でありつつも個人の選択肢の一つであり、生き様でもあって、そこに成功や失敗というものさしを当てて語られる事実は、苦々しく「ほっとけ」と思ってしまう。

 地域おこし協力隊の定着率の低さや、離職率の高さは、地域によってまちまちだが、制度として未熟であることを責められる要因の一つでもある。

 けれど、人の人生なんて、どこでどう変わるか、誰も分からない。操作もできない。定着率や離職率で判別しようとすること自体に、すでに無理がある。

 わたしが下川に暮らし続けることを「成功」とするか「失敗」とするかは、わたしが決めることだ。誰かに評価されるものではない。

 そもそも「成功か失敗か」と白か黒かで考えること自体が、ナンセンス。暮らし続けるにしろ離れるにしろ、選んでいるのは自分なのだから。

 本人が選んだほうに納得していれば、評価するまでもなく、それでよいと割り切るのは、乱暴だとは、思わない。

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