DULL-COLORED POP「演劇」|自分のキャラに裏切られ、救われるということ
恥ずかしながら。
演劇フリークのはしくれでありつつ、その劇団の名前は解散直前になって知った。
DULL-COLORED POP(ダルカラードポップ)。ダルカラ、と略される谷賢一氏率いる若手劇団は、王子小劇場で行われる『演劇』という作品を区切りに活動休止に入る。
なぜ、初見の劇団を観に行く気になったかというと、Twitterにて、わたしがその動向を追っている演劇ジャーナリストたちがこぞって高評価星3つをつけていたから。
限活動休止を目前に、名残惜しさを噛み締めずにはいられない名演を見せつけられた、といった、目の肥えた人々の歯がゆさをのぞかせるコメントなんかも並んでしまっては、観に行くしかあないじゃないの!?と、谷氏のアカウントからチケットを購入した。
内容は、現在も公演中とのことでネタバレ防止のために割愛するが、誰しもが“演じる”ことから逃れられない暮らしをしているということ、そしてその“演技”のつじつま合わせに、誰かの正義が犠牲になるということを知る。
まさに文字どおり、体当たり!で、観客にコの字型に囲まれた円形の舞台では、時間軸と登場人物たちの思惑が交錯する。
誰しもが、自分がかわいい。傷つけたくないし、傷つきたくない。演技が醸成されることで生じる“キャラ立ち”は、実は自分で自分の振る舞いに枠組みと限界を設けているかもしれない。
こういうキャラクターとして振舞ってきたから、もう後には引けない。このキャラクターを演じきれば、とりあえずこの場は収まる。
未来へ行くために、時に自分の素を押し殺して、キャラの演技に埋没する個性。それは、いつのまにか、自分なのか演技なのか区別がつかなくなってくる。
見ていると、わたしたちも、誰かの人生という舞台の登場人物なのだという意識を植え付けられる。
幸か不幸か、わたしは結構その意識はもともとあって、誰かの人生にお邪魔させてもらっているような、脇役なのか肝役なのかは分からないけれど一度出会ったからには通行人Aであっても、その人の人生の登場人物に仲間入りしたのだという意識が芽生える。
その逆も然り。わたしの人生には、現時点で様々な登場人物たちが色とりどりの人間模様を描いている。わたしはその蜘蛛の巣のように張る人と人とのつながりに、ときにとらわれ、ときに救われ、ときに絡まってこじらせたりしながら、いろんな役回りを演じる。
演じるって、悪いことじゃない。でも、演じている意識の手綱はにぎっていたい。それを誰かに手放してしまうと、わたしは一体何がしたいのか、欲求や願望がうすらぼけて、つまるところ主体性が皆無になってしまう。
誰かの人生の登場人物としてだけでなくて、わたしのシナリオを忘れず描き進めること。誰かに生かされながらも、自分でも生きようとすることの難しさとチカラを、腹落ちさせながら観ておりました。
もし、また劇団が復活することがあるなら、新作も観に行きたいなあ。王子劇場も新しくなるようなので、その日まで、わたしは自分のキャラに踊らされ過ぎないようにしたいと思います。
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