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相手への言葉は、自分への呪い

とくだん、信心深いわけではないけれど。

言葉のちからは、わりと昔から信じている。

いい意味でも悪い意味でも、声に出せば、声になった言葉が現実になるように自分を導いてくれると、なんとなく、そんな気がしている。

あとは、投げかけた言葉は必ずブーメランになって、自分へ返ってくる──とも。

小学生の頃から仲が良かった男の子がいた。

わたしも彼も、別々の学校を中学受験をしたから、学校では会えなくなったけれど、中学校に上がっても頻繁にメールのやりとりをしていた。

わたしも彼も、中学に上がると同時に携帯電話を買ってもらっていたのだ。

どんな会話をしていたのかはほとんど覚えていないけれど、ある日、何かの拍子にわたしが「死んじゃう」とメールに書いた。

何かが辛かったのか、しんどかったのか、まったく覚えていないけれど、そのあとすぐ彼から来た返事は、一言「死ぬとか簡単に言うな」だった。

メールだから、相手の声色や表情がわからない。

怒っていたのか、なだめるつもりだったのか、「死ぬとか簡単に言うな」という文字の並びでは判断できない。

でもわたしは、その返事をもらって、かたまってしまった。

「まずい」と思ったのだ。

今でも、あのときの「あ、これはダメなやつだ」と血の気がひいた感覚は、覚えている。

わたしはしばらくして「ごめん、もう言わない」と返事を書いた。

その日から、死ぬとか死ねとか死にそうとか、なるべく使わないように、生きてきた。

「死ねよ」と冗談で言いあうのも、そういう会話を聞くのも、好きじゃない。

「その言葉、いつかめぐりめぐって、あなたのもとに返ってくるよ」と思って聞いている。

死に関することだけではなくて、人に対して「つかえる」とか「つかえない」とか言い放つ向き合い方は、必ず自分の身を音もなくむしばんでゆくと感じる。

つくづく、他人は自分の、鏡だ。

言葉だって、反射する。

提案のない批判が嫌いなのも、この反射を極力無害化したいから。

ただの批判は、建設的な議論から外れてゆくし、イライラしあって、何も解決しない。

批判をするなら別の提案を以って、少しでも言葉のブーメランの切れ味がいい意味で鈍っていてほしい。戦争したくて話しているわけではないのだもの。

このnoteだって、公開した時点でパブリックなものになるわけで、他者の目にさらされた瞬間ブーメランになり、わたしに返ってくる。

返ってきたときは、呪いではなく、建設的な意見だとか提案に形を変えていたらいいのだけれど。

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