死んでしまったら、それ以上でも以下でもない
カーロ(犬)が死んでしまって、もうすぐ3週間経つ。
あたりまえだけれど、毎日やることもやらなければならないことも山ほどあって、それらに集中しているときは、いつもどおり。
でも一人になったり、ふとしたとき、もう実家に帰っても出迎えてくれるカーロはいないのだと思うと、やっぱりまだまだ、ぜんぜん、かなしい。
おちこんだとき、もうひと頑張り必要なとき、わたしはよくカーロの写真や動画を見て、心の充電をしている。
冗談でも大げさでもなく、カーロに会いたいから実家に帰ることもあった。
カーロにさわっていると、カーロを見ると、元気が出た。
どうぶつって、すごい。カーロ、すごい!
死んでしまったら、もう二度と、会えない。
その事実が、覆されることなんて、あるのだろうか。
ということを考えていたとき『いつでも会える』という絵本を思い出した。
小6のとき、この『いつでも会える』を題材にした道徳か何かの授業があって、絵本の感想を発表する時間があった。
挙手制で、何人かがすでに発表した後だっただろうか、わたしも手を挙げた。
その場に立って、どんな感想を言ったか覚えていないけれど、そのころ一人で留守番中に先代犬のルーレットが熱中症で痙攣を起こして倒れたことがあって、その時のエピソードを発表した。
「わたしはそのとき、ルーレットが死んじゃうと思って」と言うと、はらはら涙が出てきた。
『いつでも会える』も、犬が死んでしまう物語なのだ。
わたしはそのあと泣きながら何を話したか忘れてしまったけれど後から手を挙げた生徒たちも、みんな涙を流したり声を詰まらせたりしながら誰かの死を目の当たりにしたこと、もしくは死を身近に感じたことなどを発表していった。
当時のわたしたちのクラスの担任の先生は、24歳の若い女性で、わたしたちが泣きながら話している様子を黙って聞いていた。
おそらくそんな展開になるとは先生も思っていなかっただろうが、そういえばそんなこともあったなと思い出すくらいには印象に残っている授業のひとつ。
果たして、死んでしまったカーロと、「いつでも会える」のだろうか。
あの絵本も、小6の授業も、その答えは教えてくれなかった。
28歳になった今も、その答えは分からないままだ。
ただひとつ、実体験から分かるのは、カーロがいたことで、10年前に亡くなった先代犬のルーレットのことも、よく思い出すようになったということだ。
カーロのおかげで、ルーレットのことも忘れなかった。
カーロのことも、きっとすべてを覚えてはいられない。
けれど、わたしの人生の10年間を一緒に過ごしていた事実は消えない。
いつでも会えるわけではなくなったけれど、いつでも思い出せる。
わたしはこれからも、おちこんだときや悲しかったときはカーロのことを思い出すだろう。
変な顔をしたカーロの写真を見たり、楽しそうに散歩をするカーロの後ろ姿の動画を見たりして、心の充電をするだろう。
もしそれがカーロではなくて、例えば自分の子どもとか、そうでなくて甥っ子姪っ子とか、もしくは違う家族(犬)とか、違う誰か/何かに変わっても、その次の誰か/何かは、必ずカーロを思い出すトリガーになる。
そんな予感は、する。
けれど。
死んでしまったら、もう触れたり話したり一緒に歩いたりすることはできない。
あらゆるところにカーロを思い出すトリガーが散らばっていて、今はまだそれが「触れたり話したり一緒に歩いたりすることはできない」というシンプルな事実を突きつけるだけの残酷なスイッチだ。
思い出を楽しむ、なんてほど、時間は経っていないから。
「触れたり話したり一緒に歩いたりすることはできない」というシンプルな事実が、ただただ、かなしい。
それ以上でも、以下でもない。
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