ルックバックを見たら筆を折れ~原作の時そんなハマらなかったけど映画で見たらかなり良かった『ルックバック』の感想~

人類、ガールズバンドクライを見てください


間違えました。
劇場版『ルックバック』を見てきました。
原作の時も思ったのですが、輪をかけて色々思うところがあったので久しぶりにnoteというものします。



・そもそもルックバックの原作にノれなかった話。映画の感想の前に少しだけ。

漫画の『ルックバック』を読んだ時の感想は「まあまあ面白いんじゃないかな……」くらいの物でした。
それがインターネットでは絶賛の嵐、正直何故?と思ったので私なりに私の感想を纏めていました。
「ルックバック」の原作にハマれなかった大きな要因は
1:絵。絵と言うかコマ割りが苦手。
意味のない(あえて切り捨てますが、私は必要性を感じない程度の示唆的な)小コマが多すぎて読み進めるのが億劫になる。あと顔芸が冷める。
2:展開。
私は現実の地続き的な作品の中にいきなりSF感のある展開が入るのがかなり苦手で、ルックバックの京本の部屋の前からタイムスリップ風味のピタゴラスイッチが始まるあたりがかなり咀嚼できませんでした。
3:オチ。
まあ、そう。以上の感想が無かったというのが正直なところです。これは上記二つの理由が影響してるとは思いますが、京本が死んだ時点でこの展開以外あり得ないですしね。

というわけで、正直私は「まあ面白いとは思うけど……言う程か?」みたいな評価でした。
ちなみに私は藤本タツキ先生を「チェーンソーマン……?呪術……どっちの作者……?」程度にしか知らないしどっちの作品もミリしらもいいところなので(マキマさんを呪術のヒロインだと思ってた)作者の背景等に関しては全部無視してます。
作者のバックボーンを知っておく必要がある作品はその時点で名作足りえないので別に良いでしょう。

・映画『ルックバック』はブレーキを踏めない

さて、それでは映画の感想です。
と言っても映画の感想は「面白……」「作中漫画は映像化しなくていいだろ」「走馬灯演出……」くらいで特筆してどこがどう、と言うわけではないんですけど、ここで言いたいのは「映画」という媒体そのものの力を『ルックバック』が十二分に引き出したなと思ったと言う点です。
映画と漫画の一番大きい違いは、受け手が受動的か能動的か、これにつきますね。
漫画の時に感じたコマ割りの不自然さや展開で手が止まるということが映画では一切なく、ただ只管に藤野歩の人生を追体験させられるので、否が応でも気持ちは創作者マインドにされるし、京本大好きになるし、無駄に見栄を張りたくもなります。
いやホンマ京本可愛いし良い子なんだよな…………本当に……。どうでも良いけど映像化すると京本の顔の輪郭が丸っこかったり絶妙に不摂生感が強くて良かったですね。良いにおい()しそう。
話が逸れました。

漫画と違って、映画『ルックバック』は藤野歩の人生を間近で見せられるので、その分京本が死ぬのはしんどかったし、辛かった。
この辺、藤野の「貧乏揺すり」とか「声色」「視線の動き」みたいな動的なキャラ付けが補強しているように思いました。
ていうかあの貧乏揺すり皆やった事あるでしょ。
その上で音楽と映像マシマシで走馬灯を描くの反則が過ぎる。泣いちゃう。
インク零して京本が怒ってるシーンが好きでした。

映画ならではの補完や補強が、ルックバックの原作の雰囲気をより大衆的かつエンタメに昇華して、良い作品になったなというのが私の感想でしたね。

と、ここまでは長い前置きです。

・本論 創作なんてするもんじゃない

『ルックバック』は創作活動へのアンチテーゼと、呪いの話だと、私は思ってます。
この作品を見て「創作者讃歌」とか「創作は最高だぞい!」みたいな感想を抱き、ペンに、筆に、キーボードに力を込めた皆さん。
今すぐ筆を折って幸せな生活に戻って下さい。

そもそも、この話の根底は「見栄と過大評価で創作を続けた」藤野と、「どんな人生を辿っても絵に惹かれる」京本の話です。
藤野が絵を描き始めた理由が実は一切明かされないんですよね、この作品。藤野の大事なエンジンは切っ掛けにはないんですよ、きっと。

そして、藤野が創作を続け、京本と漫画を描き続けると京本は死にます。
藤野も京本も、色んな物を犠牲にして、お互いを失ってまで「創作」を続ける。
幸せですか?それが本当に?
非業の死を遂げた京本も、疲弊したまま友を失った藤野も、決して幸せとは言えないと思います。
少なくとも、小6の藤野が筆を折れば京本は生きていられたわけですし。

それでも、藤野は描き続けます。何故?とか、どうして?はありません。
自分の原罪(初期衝動でも原動力でも何でも良いんですが、敢えてこう表現します)を知ってしまった彼女は、「藤野キョウ」として描き続ける呪いを背負っていくと決めたんです。
京本のどてらに大きく書かれた「藤野歩」という文字。
アレが私には墓標に見えました。

作中では、京本の才能が強調され、絵という面において京本が優れているように一貫して描写されますが、実際のところこの二人の凄いところは、二人とも無自覚に「呪われてる」所だと思います。
描くことを辞めずにいた藤野も、必ず描くことに出会う京本も、創作と言う呪いを背負って生きています。
その結果はあの通り。
そして分岐点は、「藤野が描くかどうか」。
じゃあ、創作をする事って幸せですか?私はそうは思いません。

それでも、何が起きても描き続けてしまう人種がいます。
そんな「呪われた人種」を私たちは創作者と呼んでいます。
描かなきゃいけない。書いていなくては生きていけない。
そう言う、この世を生きていくうえで不必要で不自由な「呪い」を自覚的に、ないしは無自覚的に背負ってる人がいます。

創作者は「成る」モノではなく「成ってた」モノです。
この作品を見て「創作をしたい」と思った小学生の藤野歩のようなアナタ。
今すぐ筆を折って、平穏な生活を送れる事を、祈っています。



おまけ

藤野の作品の人気が乱高下してるの、あまりにも「外側」にモチベーションを置いてる人間のそれでちょっと息苦しくなりました。
けど彼女は、「外側に重心を置いていた藤野歩」は死んだので、この先はきっと大成するんじゃないかなと思います。

藤野キョウ先生に幸あれ。


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