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逃げていた。だけど幸せだった。#クリスマス金曜トワイライト

冬の太平洋の風が強い。潮が舞い上がって砂浜は白く霞んでいる。
あの頃あなたとこっそり忍び込んだ漁師小屋は取り去られ、代わりに津波対策のコンクリート消波ブロックが並べられている。海岸線そのものが変わってしまっていた。
今でもこの海に来れば、どうしようもない不安や良心との葛藤を抱えて走ったあの頃に会える気がした。

あの頃僕は本当に無力な子どもだった。
あなたを乗せて一生懸命に自転車を漕ぐことしかできなかった。
それだけだった。
それでも、あの短い間に幸せだと思える瞬間がたくさんあった。今やっと世界の色を感じられるのは、あの時のおかげだと思った。

だから、あなたを守り切れなかったことを許してほしい。
残酷なほど青く晴れて澄んだ空を見上げている。あなたと見たかった綺麗な空だった。


・・・・・

遮光カーテンであまり光の入らない部屋の床の上、座って耳をふさいでいた。
指の間から父さんが母さんを殴っている音が聞こえる。母さんが泣いている。
次は僕かもしれないけど、僕と兄さんがいなくなると、また母さんが殴られるから、耳をふさいで目を閉じてただ座っていた。

父さんの怒声が止んで、荒っぽく玄関を開けた音がした。手を離して目を開けると、僕と同じようにどこかに隠れていた兄さんが部屋に入ってきた、
「ちょっと、外出てろ」
僕を立ち上がらせて「コンビニで飯買ってきてもいいから」とお金を握らせた。
カーテンの隙間から入る明かりは弱すぎて、兄さんがどんな顔をしているか見えなかった。じっと兄さんの顔を見つめる僕に
「母さんは大丈夫だ」
と言って頭を撫でた。心配なのは母さんじゃないと思ったのに、手を振りながら母さんの元へいく表情のみえない兄さんを黙って見送った。
お金をポケットに突っ込み、自転車の鍵を取って外に出た。
どこか遠くに行ってしまいたかった。


・・・・・

ペダルに足をのせて力まかせに漕ぎ出した。
グレーの雲がすこしずつ夜に向かって色を濃くしていた。
周りなんて何も見ずに前だけを見て、勢いよく漕いだはずなのに、団地の階段の登り口に女の子が座っているのが見えてしまった。それがあなただった。
一度通り過ぎたのに気になって戻ってきてしまう。

あなたはまだそこに座っていた。膝をかかえて、足元の地面を睨みつけている。黒いスカートから伸びる足は痣だらけで、地面に座っているのに裸足だった。あの痣を、僕は知ってる。
「ねえ」
僕が声をかけるとはっと顔を上げる。涙の跡が見えた。顔が腫れぼったいのは、泣いたせいなのか、別の理由があるのかわからなかった。声をかけたけど、何を言えばいいかわからなくて黙ってしまった。あなたは足の痣を隠しながら、
「いつもは優しいんだ……」
と言った。瞳がうるんで光ったのが見えた。
「いつもは、優しいんだけど……」
消えそうな声で、「あたしがいるとだめみたいなんだ」と続けて少し笑った。笑ったのをみたら、いてもたってもいられなくなってその腕をつかんで引っ張った。
「乗って!」
ここにいたらいけないと思った。
心の中で「逃げよう。一緒に……」と誰かが言った。僕が思っただけかもしれない。何から逃げるのかもわからない。
でも、この時の僕にはそれしかできなかった。
あなたが黙って僕自転車の後ろに乗り、肩に掴まったのを確認して、さっきより慎重に、でも力いっぱい加速させる。1秒でも早く遠くへ逃げるために。


・・・・・

必死にこぎ続けて、どのくらい時間がたったかわからない。
空に星が見えてきて、後ろから小さくくしゃみが聞こえて、寒くなってきたことに気が付いた。僕たちは通りかかった公園のゴミ箱にあった新聞紙を身体に巻きつけてコンクリート管の中で寄り添った。ガタガタ震えていたのは寒さのせいだけではない。先の見えない不安や絶望に震えていた。とても眠れそうにないと思っているところに、ことりと僕の肩にあなたの小さな頭が落ちてきた。眠ってしまったらしい。あなたの体温を感じて、僕も知らないうちに眠りに落ちていた。

僕たちは南へ向かって走りだした。行く先は僕の婆ちゃんの家だ。
提案したのは僕だった。あなたは黙ってうなずいた。
どう思っているのかその表情からはわからなかった。
僕の夕飯代はあなたの運動靴と、僕たちの数日分の食事代になった。
思ったより多かった兄さんからの小遣いは、それでもあっという間になくなった。


・・・・・

いくつも街を通り過ぎた。夜は誰も住んでいない廃屋や漁師小屋を見つけて新聞紙にくるまって寒さをしのいだ。まず僕が建物に近づいて誰もいないことを確認する。その間、あなたはいつでも逃げられるように自転車にまたがったまま僕が戻ってくるのを待っていた。
一度ホームレスの先住者がいる廃屋に入り込んでしまい、物を投げつけられて追い出されたから、そうすることにしていた。

ちょうどいい建物が見つかると二人で喜んだ。
近くで見つけたがらくたを並べてちょっと素敵な部屋みたいにすることもあった。少し湿気たマッチで一生懸命火をつけて、緑色の空き瓶に入れると、壁に綺麗な緑の模様がゆらりと写った。すぐに消えてしまうから何度も何度も火をつけて楽しんだ。

天気のいい日は、通りかかった海の見える公園の芝生に寝転がった。
僕が飛行機雲を見つけて指さす。みつけられないあなたが、「どこ」といいながらずりよってくる。「ほらあそこだよ」と指さしながら僕は顔だけそっぽ向けた。


・・・・・

「ねえ。絵を描きたいな……」
あなたは、少しだけ何がしたいか話してくれるようになっていた。
何かをしたいと言ってくれることが嬉しくて、一生懸命どうしたらいいか考えた。
画用紙や色鉛筆を買う余裕はなかったし、机だって見つからなかったから、砂浜のある海岸へ向かった。
ふたりで砂の上に降りると、木の棒で色んな絵を描いた。
あなたは実寸くらいの家の見取り図みたいなもの砂浜いっぱいに書いた。大きなキッチン、大きなお風呂、そして、大きなリビングがあった。
「ここが私の部屋」
あなたは自分で書いたリビングのソファに座り、僕に隣に座るように砂をたたく。そして、そこにテレビがあって、そっちには猫がいて、と楽しそうに説明する。そんなあなたを隣で見ていると少し切なくなった。どうしたらそんな幸せな家に住めるのだろう。僕にはその方法はわからなかった。
一通り家の紹介を終えるとあなたは
「お腹減ったなあ……」
とソファに寝そべった。わたしはキッチンに行って、キッチンの台の上にカレーライスを書いた。隣にあなたがやってきて、わあと歓声を上げながら、かがんでお皿を手に取って食べたふりをした。
「美味しいよ。ありがとう」
僕も一緒に「ムシャムシャ」と声を出して食べた。あなたはカレーがこぼれて汚れないように、膝の上にナプキンのようにたたんだ新聞紙をひいてくれた。僕はリカちゃん人形になった気がして恥ずかしかった。
横に並んだちいさな2人の影は砂浜に伸びてゆく。二の腕あたりがそっと触れたときドキドキした。お互いに何も言わなかった。
言えなかったけれども、このままずっと一緒にいれるといいなと思った。


・・・・・

「ねえ。あとどのくらいかなぁ?」
あなたは聞いたけど、僕は何も言わなかった。婆ちゃんの家まではあと何日かかるかわからなかったし、本屋で地図を見ても今どこにいるのか分からない時もあった。
でもあなたは、僕と一緒にいる時間を思ってくれていたのだと感じるから何も言えなかった。いずれ別れの日はやってくるかもしれない。


どのみち長くは続くわけがなかった。そんなことはわかっていたけれど、僕にはどうすることもできなかった。その日は予想よりもすぐにやってきた。
二人で小さな逃避行を始めて、少し忘れかけていたけれど、人生とは自分ではどうにもならない事が続くことだった。無力感が溢れて絶像が続くのがその頃の僕の人生だった。
そしてまた新しい絶望がやって来た。


・・・・・

古くて大きなショッピングセンターの一階部分にフードコートが見えた。
沢山の家族連れでにぎわっている。
そこで食事をするようなお金はなかったけれど、トイレを借りようという理由をつけて立ち寄った。食べ物の匂いにつられたのかもしれないし、人恋しくなったのかもしれない。でも、その判断がいけなかった。

トイレからフードコートに戻ると警察官が見えた。あわてて柱の陰に隠れる。あなたは捕まっていた。少しずつ近づいてみると、警察官の声が聞こえた。
「キミどこの小学校?黙ってちゃわからないだろ」
無線からは何かが伝えられていた。しばらくするともう一名、警察官が来た。大ごとになっている。しばらくすると警察官がまた増えてしまった。もうどうすることもできない。

人混みの中なら目立たないと思って油断していた。僕はとっさに知らない家族の子どもの横に座って遠くから眺めるしかなかった。
警察官に連れていかれながら、あなたが振り返って僕を探している。
僕はあなたを助けられなかった。
かくれんぼなら得意だって言ってたのに。なんで捕まったんだよ。
振り返るあなたの後ろに見えていたピザ屋の看板がアタマから離れない。
せめて何か食べるお金があったら、空腹を満たせていたら、何か変えられたのだろうか。
でも、いつも空腹だった。弱く、情けなく、頼り無かった。そして意気地もなかった。


・・・・・

それから数日後、家電量販店の大きなテレビ画面をみていた。あなたは「行方不明の女子小学生みつかる」とニュースに出ていた。僕の名前はなかった。一瞬で終わってしまったから、ニュースキャスターは家出だったのか誘拐なのかまで話さなかった。
僕は自分のことが出てこないことにほっとした。ほっとしたことにがっかりした。
周囲を見渡す。誰も僕の事など気にしている様子はなかった。僕はテレビの売り場をあとにしてまた自転車で走った。ペダルはとても軽くなっていた。もう何も気にせず思いっきり漕ぐことができたのに、心だけが重かった。

何週間か自転車を漕いで、婆ちゃんの家にたどり着いた。婆ちゃんは突然現れた僕に驚いたけれど、何も聞かずに、お風呂にお湯を入れて美味しいカレーライスを用意してくれた。泣きながらカレーライスをほおばる僕を婆ちゃんは「えらかったねえ」と抱きしめてくれた。
僕はひとりで美味しいご飯を食べて、ひとりできれいな布団に入った。布団は少しひんやりしていて、なかなか寝付けなかった。

・・・・・

いまでも思い出す光景がある。
ゆるく長い上り坂の石垣にミカンが見えた。
自転車を一生懸命漕いでいる僕の背中にあなたが顔を押し付けている。
鼻を啜る音がした。
「なんで、あたしなんかに、やさしくしてくれるの……かわいくないのに」
なにも言えなかった。あなたが言った「かわいくない」はたぶん容姿の事だけじゃない。母親から言われ続けた呪いだ。僕に呪いを解く方法はわからない。だから聞こえないふりをした。


どこで、どうしているかもわからないけど、いつか会えたら色鉛筆をプレゼントしたい。あの日砂に書いた暖かい家を画用紙いっぱいに描いてほしい。
ぼくはいつもお腹が減っているから、その家で一緒に美味しいカレーを食べよう。
そして一緒に自転車に乗って海を見に行こう。
あの日のように一緒に笑えたら、恋のかけらを取り戻せるのかもしれない。

だけど、警察官に連れられて行く時の不安そうなあなたの顔が小さい棘のようにずっと胸の奥に刺さっている。
いくつ恋を重ねても、その棘は決して抜けなかった。あの日で「恋する免許」は失効してしまったのかもしれない。

逃げていた。だけど幸せだった。

潮が舞い上がって砂浜は白く霞んでいる。冬の太平洋の風は強い。残酷なほど晴れて澄んだ空を見上げている。あなたはいない。
あなたにとってもあの一瞬が幸福として残っていますように。
そう祈ることしかできない。相変わらず僕は無力だった。


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クリスマス金曜トワイライトに参加しています。その2です。
池松さんが書き下ろした恋愛小説をリライトしてみようというイベントです。


☆☆リライト元の切ない作品はこちら↓☆☆

☆☆なぜこの作品を選んだのか☆☆

数日前に真冬のレモンは小さくて甘く切ないのリライトで参戦したのですが、主人公から変わっているという「リライトってなんだっけ?」なものに終着しました。乗る電車間違えました。

せっかくなのでもっと「リライトらしい」ことをしたいなと思いまして、他の作品を「リライトする」という気持ちで読み直しました。
そうして「わたしならこう書きたい」が浮かんだのがこちらの作品でした。

☆☆どこにフォーカスしてリライトしたのか☆☆

逃げているときの「幸せ」を強調するために、全体的にもっと淡々としていて、どうしようもなく救いのないものにしたいと思いました。

なので、逃げ出す部分を少し静かな感じに変えようとしました。
しかし、静かにすると男の子が自転車に乗って駆けだす動機が弱くなってしまうので、ごちゃごちゃ考えた結果彼の家庭が大変なことになってしまいました。
一人っ子だと親の支配が強すぎて「逃げよう」とも考えられないかもとか、といって兄がいて彼が「逃げろ」と男の子に言った場合に兄を置いていけるかとか、色々妄想したところ、兄が母を慰めにいくところに落ち着きました。慰めるの内容は……まあ、あれです。
家族全員歪んでいて、お互いに孤立している家庭にしたら、男の子は無事家を出てくれました。
(無事ってなんだろう……)

逃走するところを、もっと悲惨な状況にしようかとも思いましたが、また別の作品みたいになりそうなので止めました。
せめてもと、ハンカチを新聞紙に変えたのは、なんとなく「この子の母ちゃんハンカチ持たせてなさそう」と思ったからです。
本当は……
元々そこまで身だしなみを整えてもらっていないであろう子どもが、少なくとも数週間風呂に入らず、海の近くを自転車に乗っていったら、相当な感じになっているでしょうし、食べられないと言っても、自転車を漕ぎ続けているので、まあ廃棄された何かを漁るくらいはするでしょうねとかとか……そのへんも書きたかったです。
垢にまみれても笑顔が素敵!な場面とか、楽し気にゴミ漁るような場面とか……。しかし、そこまでやると超大作になって超大変だなあと思って止めました。

そんな子どもがフードコートをうろついてたら普通に目立つって!

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