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失敗する自由を。自分で判断を。

最近の自分の中でのキーワードはこれです。

”自分の目でみて考える” ”それでの失敗を恐れるな”

というか、幾つかの書籍で目についていたキーワードが一斉に繋がってきてました。

ちひろさん2巻の第9話「休日」

休日:スマホで近くの口コミが高そうなところを探すのを嗜めるシーン

目的もなくただ歩くだけなんて…と最初は懐疑的でしたが、マスコット人形や大人の自販機や道端の草木やツッコミどころの多い看板などをみて

「あれ?なんで楽しいんだろう?」


一日外出録ハンチョウ2巻 15話「刮目」

スマホのレビューサイトに振り回される若者に主人公が一活(心の中で)

せっかく目の前には商店街が広がっているのに視野は狭まっているのは確かにもったいない…!自分なりの審美眼・判断基準をもって、目に入る情報から店を判断していく、これは激熱です。


そしてもう相当影響を受けている

もうレシピ本はいらない、からも

失敗する自由を取り戻せ

p.81より(鍋でのご飯炊きで失敗することもあるという話題で)

…でもねいいじゃないですかそれはなかなかに楽しいことです。なにしろこの何もかも便利になった世の中では失敗するチャンスは失われる一方なんですから、失敗って今やとてつもない貴重品かもしれません。結局失敗なんて世の中にないのである。失敗と名付けるからいけないのだ。・・・つまりネーミングを変えるのだ。成功だの失敗だのそんな二者択一で分けられるほど単純じゃない。

米を炊くのに失敗、なんてことはないのだ。
・水少なめでパラパラ→チャーハン用
・水多めでべちゃべちゃ→おじや用


ついつい、食べるときもgoogle mapでのレビューも気にしてしまうし、成功失敗のラベルを貼って生活でも一喜一憂してしまう。。。もっと自分の感覚を信じて、そこでの自分の選択をもっと味わわないといけないんだな、と思う。

特に白黒はっきりさせるようなラベル付けの姿勢は気づかないうちに、人にも(特に僕らの場合だと患者さんに)伝わってしまうし、それはあまり良くないんじゃないかと思う。

 病気に対する見解だって、そんな簡単に表現できるものじゃない。例えば「可哀想」とかそんな安直なワードで表現できるものではないし、イメージで向き合っていいものではない。そういった哀れみの”上から”目線に飽き飽きしている人は多い。

 別に気が利いたことを言わなくてもいいのだ。ただ1人の人間として向き合って話せばよいのだと思う。

「ちゃんと視線を向けなきゃ、観察したことにならない。その人が誰なのか、どんな表情を浮かべているか。思いこみを優先させちゃいけない」

知識は人の役に立てるためにある。
そして使いこなすのに必要なのは倫理観や美意識なのだろうな、と。




賛否両論はあるかもだけど、自分はこうありたいのです。

そふとそぼ:https://note.mu/sohutosobo/n/n2a50335e07d9 様から


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