私は 『わたしは真吾』 読み過ぎ君です。

「わたしは真吾」の気に入ったポイントを、主観的に批評します。読み過ぎになるとは思います。大体、「わたしは真悟」を正しく理解しようというよりは、自分が「わたしは真悟」という素材に対し、どのようなことを受け取れるかの記録という目的なわけです。その辺見苦しい部分もあると思われますが、ご勘弁下せい。また「褒めれる箇所がいっぱいで、だから気に入った」といより「なんか気に入った作品だから褒める箇所を探す」というスタンスがテーマでもあります。そういう根本的な部分がそもそも破綻しているので、その上に積み上がったものなんて真に受けないでください。

①悟がまりんとの初対面後、見学用ワッペンを付けっぱなしであることを指摘される場面。この時、悟は真剣な顔をしている。心ここに在らずといった感じ。おそらく、悟はマリンのことを考えている。この悟の顔や周囲への無関心さからは、頭の中で言語化して考えてはいない。という感じがする。「あの子名前なんて言うのだろう」のように言語を介在した思考は行なっていない。言葉は思考を押し動かす。しかし言語を必要としない、より本質的な思考は自ら恣意的に動き出す。ドロドロと無目的に蠢く。私は子供の頃、今ほど言語化して思考を行っていなかったと思う。もっと野生的で夢中であった気がする。その漏れ出すような野生がこのサトルに伺え、恋の初潮の緊張感やノスタルジーを感じる。この野生さは欲望へストレートに(短絡的に)行動させる。現にさとるは見学用ワッペンを返すと言う大義名分で勝手にマリンのいる工場に走り出す。

②その後すぐ、工場にて悟はマリンに再開する。そこで悟は「君、なまえは?」とマリンに尋ね、その名を知る。すると悟は何も言わずに駆け出し、先生の元に帰る。ここではマリンの名前を聞いただけである。もちろん、これはリンへの照れでもあるだろう。しかし、この時の悟には名前を聞くことが全てであったのではないかと思う。「野生さ」、それゆえの無計画性。子どもという存在に張り付く「焦燥」、「速さ」、「緊張感」。そのような子どもという不安定なものの描写が楳図かずおの作品に一貫し、我々を惹きつけるのではないかと思う。
また、再びマリンに関わることを目的とするならば、やはり名前を聞くと言うことにも一定の合理性が認められる。客観的にものを考えると、マリンの住所や通っている学校名を聞いた方が再会の可能性は上がる。しかし、悟という人間の主観的立場から考えようすると、周辺情報なんぞよりも、速やかにその、「ときめいた少女A」と言うものに名前を与えなければならない。さもなくば、少女Aは「悟と言う人間の『内的世界』」、「自身が主人公である、人生という名の『ストーリー』」においてのキャラクターになり得ず、エキストラにとどまってしまう。エキストラからキャラクターに引き上げるためにはやはりマリンと言う「役の名前」が必要なのである。野性の思考とでも言おうか。いや、やっぱ言わないでおこう。名前を知ることから、全てが始まるのである、名前を知った上で初めて、諸々の問題(住所や学校名.etc)が現実味を帯びて立ち現れるのである。

いやぁ〜。文章書くってめんどくさいです。大事なことは大抵めんどくさいって引退撤回爺さんがいってましたが、本当にそうですねぇ。第一回はここまでにします。では。


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