エッセイ、非常に難しい問題だ

死にてえと思ってる人、そしてそれを口に出さざるを得ない人の気持ち、すごくよくわかる。
それに対して「それ今にも死にそうな重病の人の前で言えるの?死ぬとき周りに迷惑かからないようにしてね」とか返す人の気持ちも、実はすごくわかる。
双方ともに、考え方や感性は至極正しいと思っている。

死にたい、に厳しい人たちは間違っていない。悪いことをしてるわけではない。
「死にたい」本意の探求を怠り、あまつさえあれのせいでこれのせいで私は死にてえんだと他責を用い、さらに「死にたい」という強い言葉を用いて周囲を脅す甘えた態度に嫌悪感を覚えることは、何一つ間違ってない。

ただ、死にたいと訴える人たちも、別に間違ってはいない。悪いことをしているわけではない。
何らかの困りごとを抱えていて、それを言語化するのがたいへん難しく、でも辛いんだってことを伝えないとほんとに死にそうだから「死にたい」という強い言葉が出てきているというだけなので、なんというか本当に、別に間違ったことをしているわけではないのだ。生理的に出てきちゃってるだけなのだ。おしっこ我慢するのにも限界があるわけで、それと同じようなもんだ。

つまり何が言いたいかというと、こういう二項対立の発生は個々人に属する問題ではなく、
甘えに不寛容にならざるを得ない、さらに困りごとの言語化を手助けできない、社会の問題なのだ。

と、思っているが、「ぜんぶ社会のせいなんだよ♡」という論調は最近そこかしこで流行っている気がしていて、それが真理だとちょっと困るのだ。
わたしは今ろくな話をしていないということになる。
それは困る。なんか困る。
自分はもっと言いたいことがあったはずなのに、言わなくていいというか、言う価値なかったかもって気持ちになってしまうからだ。

でも、なのに、なにも言わないのは私にとっては死と同義だ。人権を侵害されているような気分になる。

わたしは何か言いたい、もっともっと何か言いたい、言いたいよーー!!うまくできねえよーー!!!

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