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日記、死にたい!病気!

べつに飯食えて寝られりゃ幸せなんじゃないのか?とは昔からずっと思っている。じゃあ私はまごうことなく幸せだ。とも思っている。
でも楽しくない。生きててよかったわけがない。いつでもめちゃくちゃ死にたい。

ここ数年の私は、楽しいことをするととんでもない罪悪感に駆られる。ちっちゃい時はそんなことなかった気もするので、これは病気なんだと思う。もはや鬱のさなかでしか楽しいことができず、楽しいことには必ず鬱が付きまとう。本当に終わってる。

お前は、なんの役にも立たないカスなのに、なぜ楽しいことをしようとしているんだ?って脳みそがずっとずっとずっと言ってくる。
自己肯定感は高い低いじゃなくて、無い。どっかいった。

いろいろがんばってきたから鬱になったはずなんだけど、何をどうがんばったのかもう思い出せない。しかもがんばり方をことごとく間違えていたらしく、がんばればがんばるほど死にたくなってしまった。

生存をがんばってきたおかげで今生存はしている。
それ以外のことは本当に何もできてない。積み重ねてきたものが何もない。わたしはわたしとして生きること以外、なにもしてきていない。
今死んだとしても生きた証なんてどこにも残せない。タダで貰える救いはないし。もう何も考えたくない。つかれた。脳みそ取ってくれ誰か。

わたしって短歌とか詠んでるけどさ、たしかに楽しいけどさ、それって腹の足しになりますか?腹の足しにならないならそんなのやめて金を稼ぐことに全振りしたほうがよくないですか?
でも仕事に全振りしてても死にたくなるのは一緒なんですけど、というか何してても死にたみが浮き彫りになる一方なんだけど、それって本当にどうしたらいいんだ?
今の生き方がしっくり来てるかどうかって、しっくり来てるわけがないだろ。しっくり来る生き方できるやつなんてこの世にいるのかよ。

役に立つかどうかで自分の価値を決めるってマジで資本主義的な価値基準だ。
自分がその価値基準に染まってるのは別にいい。そういうもんでしょう。
ただそれに照らし合わせると自分は死んだ方がいい。だってわたしは何の役にも立ってないので。自分が役に立ってるっぽい場面もたまにあるけど、そういう時は一瞬嬉しくなるのだけれど、正直そんなのお構いなしに死にたいもんは死にたいんだ。

話の構成が破綻してきた。とにかく私は死んだ方が良いし、死にたい。これに尽きる。ここ5年くらいもう何をしてても死にたくて、手のつけようがない。もう匙を投げたい。

これを他人に言うと「あんたは生きてるだけで必ず誰かの役に立ってんだよ」と言われる。
そりゃそうかもしれない。他人のあんたが生きててくれるだけで私は嬉しいよ。あんたらは生きてるだけで私の役に立っている。
でも私が生きてるだけであんたらの役に立ってるのはにわかに信じ難い。

立場を逆転させると途端に信じがたくなる。これがいわゆる認知の歪みってやつね。ひどいねこれ。こんな歪みがあったら誰の言葉も素直に聞けなくなる。てか自分のこと特別視しすぎだろ。他人も自分も正直あんま変わんないのにね。

こんな感じで長々とマイナス発言をしてみても、なんと私には自分を卑下しているつもりが全然ないのだ。本気で何の役にも立たないから、本気で死んだ方がいいと思っている。役に立たないなら死ななきゃってのは、どっちかというとプライドが高いやつの考え方なんだよな。
自分を過剰に卑下することで許されようとする狡さも昔はあったが、もうどっかいった。そんなことしても許されないのを知ってるから。

わたしは自分をもう見捨てざるを得ないし、自分を見限らざるを得ない。早く死ねばいいと思う。だが自分に課された役割(生存)を放棄したくないので、自分の選択で死なないことにしている。

口を開けばこんなことしか言えなくなりそうだが、こんな本音は誰にも聞かせることができず(マイナス発言を繰り返すやつは必ず他人に怒られたり見捨てられたりするのだ)、でも誰とも本音で喋れないなんて、正直グロすぎてマジでムリだ。

なんも話したくない。書くこと以外なんもやりたくない。それ以外ずっと意識失ってたい。
昔からそうだったよ。今もそうだし、これからもずっとそうだ。

死にたいって言ってるのも思ってるのもだっせえなあ。
でもやめらんねえよ。死にたいんだよな。心が動かないよ。

わたしってマジで病気だね。
今はゆっくり休もうね。
こんな日記とか短歌詠んでるときがいちばん安心できるよ、今は。

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